いつも以上に賑やかな店内で、コンロにかけている土鍋が、ことことと楽しげな音をたてる。頃合いを見て蓋を開けると、ほんわりとした湯気と共に、出汁を吸って柔らかく煮えた鶏もも肉、白菜、豆腐やうどん、といった具材が顔を覗かせる。「ちょ、ちょっと待って桐ちゃん! 私には、それを入れる前によそってくれない?」大根おろしと山葵おろしが入ったボウルを手にする私を見て、麦ちゃんが怯えた声を出す。「七度笑えば、恋の味」より
「食いしんぼん」担当者Nがひっそり続けている「ご当地味巡り編」。今回のメインイラストに選んだ「山葵(わさび)鍋」は静岡県のご当地鍋で、今回ご紹介する作品のカギになっているお料理なのです!
主人公の桐子(28才)は、生まれながらの「超絶美貌」を持ちながらも、自分の容貌に強烈なコンプレックスを抱き、人目に触れぬよう外では常にマスクと眼鏡を身につけて暮らしています。勤務先の高齢者向けマンション「みぎわ荘」でも、人間関係をうまく築けずに「もう辞めよう」と思っていた桐子の前に現れたのが、「みぎわ荘」の最上階に住む不良老人・匙田(さじた)さん(72才)でした。料理上手で、ちょいと小粋な匙田さんや周囲の人たちと関わっていくうちに、桐子の心が少しずつ解け、笑顔を取り戻していくストーリーです。著者の古矢永塔子さんにお話をうかがいました。
家族の好みに合わせて作る料理が発想のもと
——まずは、 第1回「日本おいしい小説大賞」受賞おめでとうございます! 作中に出てくるお料理は、どれも古矢永さんがいつも作っていらっしゃるメニューばかりとのことですが、発想のもとになっていることはありますか?
ありがとうございます。作品に出てくるメニューは既存のレシピを家族の(主に子どもたちの)好みに合わせてアレンジしたものが多いので、発想のもとになっているのは家族からの感想かもしれません。例えば、第一話の「酒粕のミルクスープ」は、粕汁が苦手な娘のためにクリームシチュー風にアレンジしたものなんです。第四話の冷やし中華は、トマトの皮の歯ざわりが嫌いな息子のために、湯剥きにしてみたことが発想のきっかけになりました。
——各話ごとにメインになるメニューが出てきますが、この7品を選んだ理由を教えてく
ださい。
一話ごとに料理の名前を表題にすることを決めていたので、まずは料理名を聞いただけで食欲がわくものを意識しました。お店のメニューを開いた時でも、見た瞬間は文字だけなのに「あっ、これ食べたい!」と思った経験が誰しもあると思うのですが、そういった「言葉の響きとしてのおいしさ」を第一に考えました。
——本作を拝読して、匙田さんが桐子に食べさせた「鮭と酒粕のミルクスープ」や、従妹の麦ちゃんに食べてもらった「菜の花そぼろと桜でんぶの二色ご飯」弁当、桐子が夫・圭一のために作った「クレソンとあさりのふわ玉雑炊」など、どれもその時「食べさせたい、食べてほしい」と思う人を一番笑顔にできるメニューになっているんだなと感じました。
素敵な解釈をありがとうございます。挙げていただいた三つのメニューは「作り手が、食べる相手の笑顔を思い浮かべながら料理をした」というところが共通していると思います。ネタバレになるのであまり言えませんが、桐子の夫の圭一がつくる料理はSNSのフォロワー達から反応を得るために作ったものであり、桐子のためではないんです。だから桐子が口にした時に、おいしさも温かみも感じず、寂しさだけが募る、という部分との対比の効果が出せれば、と考えました。
——本作のラストメニュー「山葵鍋」は、匙田さんの出身地・静岡県の料理だそうですね。山葵を一本まるごとすりおろして直接鍋に投入するというインパクト大な一品ですが、このメニューをお知りになったきっかけは何だったのでしょうか。
初めは、別作品を書くために江戸の文化や風俗を調べていて「とーんとくる」という江戸言葉を知りました。その時に何かに使えそうなフレーズだな、と思い頭の中にストックしていたのですが、今回の作品を書きながら「とーんと」と「つーんと」を絡ませて印象的なラストシーンを書けそうだなと思い、「つーんとくる」=「山葵」、山葵といえば静岡県、という思いつきから、静岡の郷土料理の山葵鍋にたどり着きました。高知県では生山葵が手に入らないのでまだ試したことはないのですが、いつかぜひ食べてみたい料理です。
——山葵鍋を食べているシーンでの桐子の一言に「とーんときた」匙田さんですが、この「とーんと」は、いわゆる江戸言葉ですよね? 私はこの言葉の意味を知った時、「とーんと」きました! この場面でこの江戸言葉を使った理由を教えてください。
「とーんと」という言葉の意味を明かさず終わらせることで、疑問に思った読者の方がスマホやパソコンなどでこの言葉を検索し、表示された結果を見て「とーんと」来てくださることを想像して、このようなラストにしてみました。今作の本当のラストシーンはそこにあると思っているので、根津さんに辿り着いていただき非常に嬉しいです! 今は誰もがスマホを持っていて、分からないことはすぐに検索して調べられる時代なので、こういう仕掛けも面白いのではないかと思い、ちょっと冒険してみました。
——マスクで顔を隠し、殻に閉じこもっていた桐子が、匙田さんのお料理で少しずつ心を開くことができたように、古矢永さんが「救われた」という経験のある思い出の料理はありますか?
特別なことではなく、実家に帰った時に母の料理を食べるとホッとするな、というのは根底にあります。それ以外で特別に印象に残っているのは、社会人になって二年目、先輩と一緒に徹夜で仕事をした後に、会社近くの立ち食い蕎麦屋で朝ご飯をおごってもらったことです。正直に言うと「ご飯よりもお風呂、いや、まず寝たい……」という心境だったのですが、店に入った瞬間、かつおだしの香りがふわっと鼻をくすぐって「ああ、出汁ってこんなにほっとする香りだったんだな」と驚きました。温かい蕎麦のつゆが徹夜明けの体をほぐしてくれて「『五臓六腑にしみわたる』とはまさにこのことだ」と思いました。その後は眠気覚ましにガッと唐辛子をふりかけて蕎麦をすすり、また職場に戻って夜まで仕事をしたのが、今となってはいい思い出です(笑)
——「おいしいもの」には、どんな力があると思われますか?
人の心をほぐす力、でしょうか。初対面の相手との緊張しながらの食事会で、おいしいものをきっかけに思いがけずに話がはずんだり、仕事帰りにおいしいものを食べることで、ふっと肩の力が抜けてリラックスできたり……。また、パートナーに腹を立てている時でも、おいしいものを食べたら「ま、いいか」なんて思ってしまうこともありますよね。私だけかもしれませんが(笑)でも、おいしいものを食べながら怒り続けられる人って、なかなかいないんじゃないかなと思うんです。