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荒俣宏さん「妖怪少年の日々 アラマタ自伝」インタビュー 現代の妖怪博士ができるまで

文:朝宮運河 写真:内海裕之

役に立たないことを追いかけた少年時代

――『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』は荒俣さんの73年の軌跡を、多彩なエピソードを交えつつ綴った初の自伝です。執筆の経緯を教えていただけますか。

 経緯は実にシンプルで、書くことがなくなってきたから(笑)。ぼくの大好きな稲垣足穂が、人間は25歳までにこの先生きるか死ぬかを決めろといっています。ぼくもその考えに影響されて、45歳くらいで死ぬのがちょうどいいと思っていた。ところが予想以上に長生きしちゃってね、余録が30年もついてしまったんです。しかしさすがに死期も近いでしょうし、一度くらい人生をふり返ってみるのも悪くないかな、と考えました。

――これまではご自分の過去を、あまり語ってこられなかった印象があります。

 そうですね。東京生まれの団塊世代でしかも貧乏人。いわば三悪が揃っているので(笑)、こんな人生を語っても面白いわけがないと思っていました。それに自分のことを語るのは、あまり得意じゃないんです。これは東京の下町っ子に特有の感覚かもしれない。自分の功績を誇ったり、苦労話をしたりするのは、下町では野暮だとされるんですよ。同じく下町の出身だった師匠の平井呈一先生も、ご自分の過去についてほとんどお話しにならなかったですね。

――荒俣さんは台東区下谷の出身。下町で生まれ育ったことが、ものの見方・考え方に大きな影響を与えたようですね。

 うちは代々下町暮らしなので、東京の原住民みたいなものです。下町気質というのは、一言でいうなら生きるのが下手くそ。偉くなったり金持ちになったりするのが嫌いで、貧乏だけど凜々しく生きる人を粋だともてはやす風潮があるんですね。「粋」の語源は「意地」ですからね、互いに意地を張っているんだけど、それは表に出さない。そういうやせ我慢の美学みたいなものは、まわりの大人に共通してありました。外の世界から見たらなんとも馬鹿げた生き方なんだけど、当人たちはそれが格好いいと信じているんですよ。

――少年時代から読書をはじめ、マンガ執筆、映画鑑賞、魚の飼育とさまざまな趣味に打ち込んだそうですね。

 それは切実な理由があったんです。当時の下町の子どもたちは、今と違って将来の自由がほとんど与えられていなかった。中学校を出たら就職をして、そのまま働き続けることがほぼ決まっていたんですね。せめて中学卒業までは好きなことをして暮らさないと、一生後悔するぞという思いがあった。だから受験勉強はそっちのけで、将来の役に立たないことばかり追いかけました。マンガも描くのも、生き物を飼うのもそう。怪奇小説の研究なんてその最たるものですよ(笑)。

――中学時代に出会った『世界恐怖小説全集』などのアンソロジーで、ホラーに開眼されたとのことですね。その手のものに惹かれる素地はあったのでしょうか。

 近くに住んでいた祖父母から、「本所七不思議」などの怪談をさんざん聞かされて育ちましたからね。子どもの頃はテレビがまだないですし、一番身近なエンターテインメントといえばラジオで聞く落語や講談、そして年寄りのする怪談話だった。馬鹿馬鹿しいものもあったけど、「おいてけ堀」や「足洗い屋敷」などは背筋がゾッとしましたね。中学生になって海外の怪奇小説に触れた時には、これは昔ながらの怪談をより高度に、洗練したものだなと分かりました。近代的な装いを凝らしているけど、根底にあるのは年寄りからさんざん聞かされたような化け物話なんです。それもあって妙に馴染みやすかった。

孤高の文学者・平井呈一との師弟関係

――そこで怪奇小説翻訳の第一人者・平井呈一さんに手紙を出し、中学3年にして弟子入りします。すごい行動力ですね。

 他にどんな作品があるのか、教えてもらいたかったんですよ。当時は情報が少なかったから、分からないことは詳しい人に訊ねるしか方法がなかった。平井先生が何者なのかよく知りませんでしたけど、怪奇小説を何冊も訳しているし、解説も書いているから、きっと日本一詳しいだろうなと(笑)。

 ぼくは昔から師匠マニアでね、怪奇小説以外のジャンルでも、師匠と心に決めた人にはどんどん手紙を出していました。魚の飼育法だったら中西悟堂、サボテンの栽培法だと龍胆寺雄。後日、「こんなに偉い先生たちだったのか」と知って仰天しましたけど。当時は本に住所が載っていたし、有名な方でもよく返事をくれたものなんです。

――初対面の平井呈一さんの印象は?

 訳している小説のイメージにぴったりの方でした。初めてお会いした際、渋谷の喫茶店で待ち合わせたんですが、着流し姿でふらっと店に入ってこられて、まるで江戸時代からタイムスリップしてきたようでした。あの眺めは何十年経っても忘れられませんね。周囲から変人と見られても気にしない、昔ながらの江戸っ子の典型です。話し方がどうもうちの祖父にそっくりだと思ったら、平井先生も下谷出身ということが後になって分かりました。

――平井さんが1976年に亡くなるまで、お二人の師弟関係は続きます。その間には何度も破門を言い渡されたとか。

 理由は全然大したことじゃない。先生が褒めた本をつまらないといったり、羊羹の味に文句をつけたり。それで「お付き合いをやめさせていただきます」と言い渡されちゃう(笑)。平井先生もさっぱりした方なので、謝ると許してくださるんですけど、緊張感のある関係でした。今にして思えば、たぶん平井先生も楽しんでおられたんじゃないでしょうか。永井荷風しかり、戦前生まれの偏屈な文学者にとって、弟子を破門することは生きがいみたいなところがあったでしょうから。

――今回の本は、孤高の文学者・平井呈一の略伝としても読むことができますね。生活に困窮してせんべい屋を営んでいたこと、晩年イギリス行きを望んでいたことなど、貴重なエピソードの数々に驚きました。

 イギリス渡航は本気で考えておられて、ホレス・ウォルポールの建てた屋敷を見たい、と話しておられました。実現できなかったのが残念ですね。平井先生を直接知る人はもうほぼ鬼籍に入ってしまい、今では紀田順一郎先生とぼくくらいしか残っていない。時代の変化をつくづく感じます。平井先生の存在を語り継ぐのは、ぼくに与えられた最後の宿題。この10年ほど調査を続けてきて、やっと謎に包まれた人生をほぼ辿ることができました。近く平井呈一年譜として発表できると思います。

 調べていて興味深かったのは、谷口喜作という平井先生のお兄さんのことです。上野で和菓子屋を営みながら、芥川龍之介などの文学者と広くつき合い、彼らの面倒をよく見ていた。自分のことは二の次で、他人のために労力を惜しまない。今では珍しくなったそんな人たちの姿も、この自伝には書き記しておきました。

調べてみれば、何だって面白い

――大学卒業後は、日魯漁業(現・マルハニチロ)に入社。サラリーマンをしながら怪奇幻想小説の翻訳家・評論家として活動されます。会社員時代のエピソードも興味深いですね。

 怪奇小説の翻訳ではとても暮らせないので、サラリーマンになったんです。当時は定年退職が55歳でしたから、30年ちょっとがんばれば年金をもらえて自由時間が手に入る。それまでの我慢だと思っていました。ところが入社してみたら、案外居心地のいい会社だった。漁業関連の仕事なので、魚好きの先輩がたくさんいて、ぼくも魚好きなので情報交換しては、全国に採集に行っていました。恵まれた環境でしたね。

 最初に配属されたのが資材部で、船に積むための資材を管理する部署。そこで当時まだ珍しかった段ボール箱について調べたら、面白くて夢中になった。大勢の前で「これからは段ボールの時代です」と講演したこともありますよ(笑)。次に配属されたのがコンピューター室。今でいうプログラマーとエンジニア、オペレーターを兼ねたような仕事を9年ほど続けました。嫌になったら逃げだそうと思っていたけど、やってみるとこれも面白かった。

 世の中嫌なことばかりですが、やってみたら意外に面白いということもあるものです。ぼくが「何をやってるのか分からない人」とよくいわれるのは、次々に面白いことに出くわし、興味の対象が移り変わっていくからなんです。

――1979年には会社をやめて専業作家に。『帝都物語』や『世界大博物図鑑』などのベストセラーが生まれることになります。

 当時は3年ほどフリーの物書きをやって、またサラリーマンに戻るつもりでいました。プログラマーとしてのキャリアを積んできたので、再就職は簡単だろうという計算もあったんです。ところが怠惰な生活に慣れてしまうと、毎朝出勤する暮らしには戻れなくて……(笑)。作家は年中いつでも旅行できるし、魚の採集にも行ける。収入は激減しましたけど、いいことだらけでした。両親にはさんざん文句を言われましたね。せっかく大企業に勤めたのに、貧乏暮らしに戻ってどうするつもりだと。

――これまで刊行した著書・訳書は300冊以上。怪奇幻想文学・博物学・風水とさまざまなブームを牽引してきた荒俣さんですが、パイオニアゆえのご苦労もあったのでは。

 人が手をつけていないジャンルばかりだったので、大変は大変でしたね。たとえば参考資料を探すのでも、どこにどんな本があるのか分からないし、欲しい本があっても手に入らない。入手まで10年かかる、なんてこともざらでした。今だとインターネットで検索すると十中八九ヒットするし、国会図書館のデジタルライブラリーも充実しているので、いい時代になったなと思います。

――現在、角川武蔵野ミュージアムにて、荒俣ワールドの集大成ともいうべき展覧会「荒俣宏の妖怪伏魔殿2020」が開催中です。荒俣学は今後、どこへ向かうのでしょうか。

 明治から大正にかけて活躍した江見水蔭という小説家がいます。相撲が「国技」と呼ばれるきっかけを作ったことでも知られる作家ですが、この人が書いている考古学に関する小説がたいへんに面白い。考古学マニアだった水蔭は、各地の貝塚や遺跡を発掘していて、その経験をもとに縄文時代を舞台にした小説を残しているんです。武蔵野に住んでいた縄文人が、鉄器を持った新興勢力と戦って、蝦夷のあたりへ落ち延びていく。しかし、最後まで縄文人の誇りをもって多摩川の対岸に踏みとどまった一族が全滅していく場面で終わります。江戸っ子の琴線に触れるところがあって、読んでいると泣けるんですよ(笑)。ここしばらくは水蔭の小説が気になって、本を集めているところです。75歳近くになっても、知りたいことが次々出てくる。面白いものだなと思います。

――荒俣さんが先鞭をつけた怪奇幻想小説も、今日ではエンターテインメントの一ジャンルとして定着し、人気を誇っています。こうした状況をどうご覧になっていますか。

 高校時代、平井先生にあてた手紙で、怪奇小説はそのうち滅びると思うと書いたことがあるんです。あまりにも現実と遊離した世界を描いているので、科学が発達したらきっと過去のものになるだろうと思っていました。すると先生は、「人間が生きているかぎり怪奇文学は滅びないと信じています」とお返事をくださった。今では先生の意見に賛成です。

 怪奇小説には古いからこそ滅びない、普遍的な価値がある。それに現代では、普段の日常生活がフィクションに近づいて、ホラー的な表現も当たり前に受け入れられています。怪奇小説やホラーという呼び名がなくなっても、この流れが途絶えることはないでしょう。もって瞑すべし、ですね。長年やってきた甲斐がありました。