ページをめくる指が震えた。手にしていたのは一冊の古びた手帳。希代の登山家、松濤(まつなみ)明のものである。
「1月6日 フーセツ 全身硬ッテ力(ちから)ナシ.何トカ湯俣迄(まで)ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス」
1949年1月、松濤は槍ケ岳の北鎌尾根で猛烈な風雪に遭遇した。視界不良のなか、パートナーの有元が滑落する。助けに下るが、もはや登り返すことは不可能。やむなく温泉小屋のある湯俣に向けて脱出を試みる。しかし胸まで潜る深い雪が行く手を阻んだ。岳友はもう動けない。雪洞の中で、松濤は共に逝くことを決意して手帳を開く。
「手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケズ」。凍える指先で綴(つづ)られたカタカナ文字は、行動記録からやがて遺書へと変わっていった。母親への感謝の気持ち、残された兄弟への思いが綴られて、結び。「我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又(また)人ノ身体ヲ作ル/個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ」
1999年、私は縁あって松濤の実弟・裕さんからこの手帳をお借りすることができた。会社の地下スタジオで全ページを撮影。そして誓った。松濤明の遺稿集『風雪のビヴァーク』を自分の手で編集し直すと。
手帳の全文を完全収録したほか、登山史研究家の遠藤甲太氏に解説を依頼。埋もれていた松濤の登攀(とうはん)記録に光を当てて、増補する。『新編 風雪のビヴァーク』はこうして誕生した。=朝日新聞2021年7月7日掲載
◇はぎわら・ひろし 60年生まれ。月刊誌「山と渓谷」元編集長。