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「まだまだという言葉」書評 小説のリアリティここまで進化

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2022年01月29日
まだまだという言葉 著者:クォン ヨソン 出版社:河出書房新社 ジャンル:小説

ISBN: 9784309208428
発売⽇: 2021/11/26
サイズ: 19cm/235p

「まだまだという言葉」 [著]クォン・ヨソン

 姉に裏切られ、金を持ち逃げされた二十歳のソヒは毎日往復三時間かけて仕事に出かけ、仔細(しさい)な借金返済のシミュレーションを続ける。水道メーターから生々しい悲鳴のような音が響くアパートに住むデロンは、今はもうここにはいないディエンが語った夢の記憶を辿(たど)り続ける。父と合葬されることを嫌がる母のため、土葬されていた父を火葬しようと集まった四人きょうだい。声帯囊胞(のうほう)手術を受け、喋(しゃべ)れない期間を経た元夫が、以前の彼と違うことに気づいた元妻。
 八篇(ぺん)の短篇からなる本書の大きな特徴は、多くが説明されないということだ。小説を書く身からすると、これがいかに書き手にとって難しいことかよく分かる。主人公の過去や設定を違和感なく忍ばせ読者に伝える手腕は、これまで上手(うま)い小説家の条件ともされ、書き手もまた、最低限の情報を伝えておかなければという衝動や責任感に突き動かされてしまうのだ。
 しかし本書に於(お)いては主人公のモノローグや回想から、こんなことがあったのだろうと想像はできても、確信はできないままほとんどの話は進んでいく。これは、激しく揺れる電車にどこにも摑(つか)まらないで乗っているような不安、夢か現(うつつ)か分からないような居心地の悪さを読者に引き起こす。しかし本来、人には取扱(とりあつかい)説明書などなく、ある程度の恐怖や不安と共に知っていくほかないのだ。そう気づくとそもそもこの世には、説明過多のコンテンツが多すぎるのではないだろうかとも思えてくる。
 私たちは誰かと知り合った時、少しずつ距離を詰めたり保ったりしながら、どこまで相手を知るか、知るべきなのか、無意識的に探っている。そんな隣人との関係に似たものを築ける本を、初めて読んだような気がする。小説のリアリティはここまで進化したのだ。大きな事件の起こらない、それでも切実なそれぞれの今が描かれる本書に、静かで致命的な衝撃を受けた。
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1965年生まれ。1996年、長編小説『青い隙間』でデビュー。韓国で受賞多数。著書に『春の宵』『レモン』など。