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スナイパー 澤田瞳子

 この数年、かつての自分からは信じられぬほど、特定の語を頻繁に口にしている。それは「かわいい」だ。

 「かわいい」が向けられる相手は我が家の猫で、彼女はそれを半ば自分の名前と思っているらしく、毎回さも当然と言いたげな顔をする。それでも毎朝毎晩すり寄ってくる姿を見ると、「かわいいなあ、君はかわいいねえ」と繰り返さずにはいられない。まったく自分が毎日こんなに「かわいい」と連発しようとは。猫を飼い始める前のわたしが聞いたなら、「まさか! わたし、何を見てもそんなにかわいいとは表現しなかったのに」と声を上げるはずだ。

 言葉とは面白いもので、その語の存在を知っていても、使うべき場面に逢(あ)わなければ生涯用いる必要がない。たとえばわたしは知識としては「覚えていろよ」との台詞(せりふ)を知っているが、幸か不幸か一度も使った経験がない。哀(かな)しいほどお酒に弱いので、「蒸留酒」の語も自ら使う機会はないだろう。人間はきっとそれぞれの中に、「まだ使うべき場面に遭遇していないがための未使用用語集」があって、いざ!という出来事に遭遇した際、それを捕捉すべく言葉の弾丸が飛び出すのだ。

 数年前、人が他人の真情を深く配慮する行為を簡潔に表現したくて、自分の中の未使用用語集をひっくり返した挙句(あげく)、「忖度(そんたく)」という言葉を用いた。その時は、「そうか、忖度とはこういう時に使えばよかったのか」と適切な言葉を撃ち出せたとひどく満足した。それから間もなくある報道が元で「忖度」が一般的な用語となったのを見るに、あの時期、最初に「忖度」を使った方もきっと、わたしとよく似た感覚を味わったのかもなと思う。

 猫との暮らしを始めなければ、わたしは「かわいい」を多用しなかっただろうし、猫砂も猫缶も「未使用用語集」に収録されたままだった。さて明日、わたしはどんな出来事を言葉で狙い撃つのだろう。そんなことを考えながら、己の中の言葉の弾をこっそり数える。=朝日新聞2022年3月2日掲載