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大文明と小さな文化 深層からみるウクライナ問題 一橋大学名誉教授・田中克彦

「国旗の日」のイベントで、市役所前の広場に集まった人たち=2022年8月23日、ウクライナ・イルピン、関田航撮影

 ロシアの大統領プーチン氏が、ウクライナに軍をすすめたとニュースで知った2月下旬。即座に思い出したのは、百年ほど前、フランスを代表する言語学者アントワーヌ・メイエが発した次のようなことばである。

 「ロシア語の土語にすぎない」「小ロシア語を国語にすることは、農民の方言を都市住民に押しつけるもので、つまりは文明を引き下げることである」と。ここに言う「小ロシア語」とはウクライナ語のことで、革命前のロシアではウクライナは小ロシアと呼ばれていた。

 この文章があらわれるのは、1928年刊行の『ヨーロッパの言語』であって、17年のロシア革命が、ヨーロッパの言語状況にいかなる変化をもたらしたかを論じたものである。

 メイエはまず、フランス語がロシアの貴族社会から追い出され、それまで全く世に知られなかった、小さな「未開で野蛮な」諸民族の言語が文字を与えられて公用語となり、既存の文明語を追い出していくのを苦々しい思いで眺めていたのである。大文明は小さな文化を吸収し同化して、ヨーロッパ文明の統一をはかるべきだとの考えがメイエにはあったからである。

自分たちの言語

 フランスが今日のように単一のフランス語に統一される以前、南部のプロヴァンス地方には、特有のプロヴァンス語が話されていたが、13世紀にキリスト教の異端派アルビジョワを征服するために十字軍がこの地に派遣され、抵抗する人たちは、生きたまま火に投じられるなど残酷に鎮圧された。

 時代は異なるが、プーチン氏の念頭には、小ロシアのウクライナは、大ロシアに同化し一体となるべきことが当然のこととしてあったにちがいない。ロシア文学の確立に大きく貢献したゴーゴリも、もとはウクライナ語で書いてもみたが、作家として成功したのは、大ロシアの首都ペテルブルクに移住し、そこで下級官吏の悲哀を描いた痛切な作品「」「査察官」などを大ロシア語で発表したからではないかと。

 一方、プロヴァンスでは、自分たちの言語で書くという運動が高まった結果、プロヴァンス語で『プロヴァンスの少女(ミレイユ)』(杉冨士雄訳、岩波文庫・品切れ)を書いたフレデリック・ミストラルが、1904年にノーベル文学賞を得た。プロヴァンスの人たちとその言語の存在が、世界の注目を浴びた。その受賞の前年、ウクライナは大文学祭を催して、ミストラルを招いた。高齢で出席できなかったが、ともに国家をもたない、プロヴァンスとウクライナの間には当時、強い連帯感があったことを物語っている。ウクライナもプロヴァンスも、中央から見下された「地方、いなか、辺境」を意味し、さらに「国内植民地」を暗示していた。

この百年の変化

 ウクライナ問題を考える際には、政治の表層を追うだけにとどまっていてはならない。ロシア革命からこの百年の間に、学問の流れに巨大な変化が生じていた。まず言語学では、ソシュールの共時言語学が文明主義的、権威主義的なインド・ヨーロッパ比較言語学への決別を告げ、アメリカ生まれの文化人類学は、大文明ではなく、個別の文化に関心をうつし、さらに日本では柳田国男が、日本の学問がすみずみまで大文明に侵されていくのを横目でにらみながら、ささやかな「常民」の生活に目をこらす民俗学の建設に取り組んでいた。その成果の一端は『明治大正史 世相篇(へん)』に集約されている。このような、学問に反映された人間の精神世界におけるドラマチックな転換にプーチン氏は学ばず気づかず、尊大な大文明主義に抵抗する諸民族に「ナショナリストだ」と罵声を浴びせたのである。=朝日新聞2022年9月10日掲載