前回、大田区梅屋敷にある葉々社を訪ねたのだが、その際に「梅屋敷はお笑いトリオ・ネプチューンのコントネタにされていた」と書いたら、猛烈に懐かしくなってしまった。
後日手持ちの録画を探して見たのだが、2012年に放送されていたそれは、「梅屋敷から出たことがない若者が、もうすぐオープンする東京スカイツリーに恐れおののく」という話だった。
別に恐れおののきはしないけど、そういやスカイツリーって間近で見たことがなかったな。いい機会なので真下から眺めたい&近くの書店を訪ねたいと思い、一路墨田区押上を目指した。押上には、甘夏書店という本屋があると聞いていたのだ。
古民家の2階で営業、ドアは全開「ご自由にどうぞ」
ぐるりと鉄塔を眺めたのち、浅草方面に向かって歩くこと約10分。曳舟川通りを過ぎると地名が墨田区向島に変わり、芸事に従事してそうな女性の姿も目に入る。向島といえば江戸時代から花街として知られてきたけれど、今もお座敷は健在なのだな。なんてことを考えていると、甘夏書店がある古民家に辿り着いた。
1階はikkA というカフェになっていて、この2階にあるらしい。店の奥に進んで靴を脱ぎ、キュッと角度のついた階段を上る。ドアは全開で、「ご自由にどうぞ」の看板もある。しかし中を覗くと……誰もいなかった。レジカウンターに店主は不在にしていること、お会計は1階でというメモが置かれているが、誰もいなくて大丈夫なのだろうか? 勝手に心配しながら棚をチェックしつつ、この日は退散した。
数日後に再び訪ねると、店主の大山朱実さんが迎えてくれた。
「イベントの時は毎日顔を出しますが、普段は週のうち3日間いることにしていて、いない日は1階に会計をお任せしてるんですよ」
そう語った大山さんは金沢市生まれで、小学校3年生の時に福井に引っ越した。大学と就職は大阪で、バブルの頃に転勤で東京にやってきた。当時は、不動産のマーケティング関連の仕事をしていたという。
「東京で3年働いていたのですが、結婚・出産で退職して。しばらく子育てをしていたところ、元の会社から出版物をまとめる仕事を請け負うようになって」
同じ頃、子どもたちへの絵本の読み聞かせ活動も始めていた。もともと本は大好きだったが、子どもたちの絵本を選んでいるうちに、絵本の世界にドはまりしてしまったそうだ。
「たとえば長新太さんが描くようなナンセンスものや、佐々木マキさんの『ピンクのぞうをしらないか』のような奇想天外なものなど、ひとことで絵本と言っても色々な作品があります。私が好きな絵本と子どもが好きなものも違っていて。でも、ひとたび読みだすと同じ世界に入っていけるのも、絵本の面白いところだと思ったんです」
しかしこの頃はまだ、書店を始めようとは思っていなかった。子育てがひと息ついた大山さんは、ビル関係の季刊誌を発行する会社に再就職することになった。
「編集部が飯田橋にあって、当時は本屋さんが近くにたくさんありました。それぞれにこだわりがあったので、『この本はここで買いたい』と思う楽しみがありました。出版社や印刷関連会社も多くて、本への情熱と活気が感じられる街でしたね」
谷根千のブックイベントから生まれたつながり
3年ほど働いたが体調を崩し、雑誌の発行ペースが変わったり学校の役員を任されたりしたことから、会社勤めをリタイア。外注として元勤務先の仕事を手伝っていた折に、台東区の谷中・根津・千駄木でのブックイベント「一箱古本市」の存在を知った。「一箱古本市」とは地域の軒先を借りて、段ボール一箱分の古本を販売するイベントのこと。今では全国各地で開催されているが、この不忍ブックストリートの古本市が発祥なのだ。
「これから先は1人でもできる、自分のやりたいことをやっていこうと考えていました。古本屋への憧れはありましたが、この頃って古本屋をテーマにした本がちょっとしたブームで。色々読んでいくうちに『ちゃんとしていないと店はできないんだ』と尻込みしてしまって。でも古本市のことも知り、『なんだか楽しそうだ』と思ったんです」
家にあった絵本や仕事関連本、周囲から譲ってもらった絵本を携えて参加すると、そこには今まで見たことがない景色があった。
「もう何もかもが新鮮でした。古本市サポーターや谷根千好き、イベントのファンやふらっと立ち寄った人など、本を囲む人たちとの話がとにかく面白くて。自分はイベントが好きで、イベントに参加するのも好きだったんだと実感しました」
その後も何度か出店していたが、ある時「うちの商店街でも本のイベントを開催しませんか」 と声をかけられた。押上の隣の曳舟にある、鳩の街通り商店街の関係者だった。イベントにかかわるうちに実行委員になり、「ふるほん日和」というイベントを始めることになった。
2011年7月からは、商店街にある一軒家のシェアショップに1~2週間単位の店を開き、不定期ながらも書店としてのスタートを切った。ikkA店主のとよしまちえさんとも、この「ふるほん日和」の集まりで知り合った。
「自分の主催や誰かのイベントがあると、そのテーマに沿った本のセレクトをしていたのですが、2014年に入ると、シェアショップの主催者が引っ越すことになって。色々な人にその話をしたらとよしまさんが、『ikkAが空いているので、よかったら来ませんか』と声をかけてくれました。この地域のことが好きになっていたから、拠点を作ってみようと思ったんです」
甘く、酸っぱく 「甘夏」は色々なテイスト
イベントで知り合った仲間の手を借りて棚などのセッティングをし、甘夏の形をした看板はやはりイベントで出会った、旅する本屋・放浪書房のとみーさんに作ってもらった。
ちなみにこの放浪書房は店舗を持たず、とみーさんが旅をしながら旅の本を売り歩く、おそらく日本唯一の「人力移動型の旅本専門店」になっている。しかしなんで店の名前を、甘夏にしたのだろうか。
「甘夏って甘いものもあれば、酸っぱいものもあるじゃないですか。そこが絵本からノンフィクションまで、色々なテイストを置く本屋にピッタリかなと。あとは一箱古本市の頃、本を入れる段ボールに『甘夏』って書いてあったのもきっかけですね」
なんともかわいいネーミングだが、スタート時点では新刊を仕入れるノウハウが全くなかったので、在庫の全てが古本とZINE(個人誌)だった。しかし今は、4割程度が新刊になっているそうだ。
「ZINEのイベントをした際に、文筆家の木村衣有子さんが、ご自身の『のんべえ春秋』というZINEを持ってきてくださったんです。その後木村さんから新刊の案内を頂いたのですが、この時に『うちでも新刊を扱えるんだ』と知りました。その後も作家の方から出版社を紹介して頂いたり、お客さんのリクエストを出版社に連絡したりするうちに、直接取引なら仕入れられることがわかりました」
とはいえ、新刊は仕入れの条件が厳しい出版社もあることや古本選びの「宝探し感」が楽しいから、古本の扱いは今後も続けていくと語った。
新刊は絵本やノンフィクションに加えて、沖縄書店大賞の準大賞受賞で話題になった『沖縄島建築 建物と暮らしの記録と記憶 (味なたてもの探訪)』(トゥーヴァージンズ)など、建築関係も多い。地元の人気カレー店のレシピをまとめた『SPICE CAFEのスパイス料理―日々のおかずと、とっておきカレー』(アノニマ・スタジオ)は、カレーを食べた帰りに「著書を置きたい」と頼んだら、店に戻る約20分の間に、出版社からOKの連絡が来たそうだ。なんという押上の、地域つながり力!
棚には本以外にも雑貨が置かれているが、中でも目に付くのは手ぬぐいとブックカバー。1階に掲げたミニ看板に「本とブックカバー」とあるのを見てもわかるように、ブックカバーは手軽な値段のものから作家が手掛けたアートな1点ものまであり、品揃えが手厚い。
「ブックカバーは一箱古本市の頃から置いていますが、当時は布を実家に送って母親と妹に作ってもらっていました。手ぬぐいもシェアショップからですが、この地域らしいものって何だろうと考えた時に、手ぬぐいだろうと思い至ったのがきっかけです。毎年やっている『本とてぬぐい』というイベントは、今年も好評でした。11月は『お座敷えほんマルシェ』、12月は『うさぎと冬の贈り物展』を開催予定です。 ……私、本当にイベントが好きなんですよね」
地域力だけではなく、家族力も駆使してきたとは。大山さんが築いてきた、江戸の下町の象徴ともいえる「人のつながり」に触れて心が温かくなった瞬間、お腹が鳴ったのがわかった。時計を見るとちょうど12時。ikkA でランチをいただくとしよう。
大山さんにお礼を言い、階段を降りる。買ったばかりの本のページをめくっていると、今度は紅茶で煮た豚丼が迎えてくれた。本を読みながら、同時にお腹も満たす。それがひとつの場所でかなうとは、なんと幸せなことか。
もし梅屋敷の若者に出会うことがあったら、「大丈夫だから押上に行ってみて」と言ってみたい衝動に駆られながら店を出ると、明るいばかりの空とスカイツリーが、すぐそこにあった。
(文・写真:朴順梨)
大山さんが選ぶ、「私の好きな街」が感じられる3冊
●『いいビルの世界 東京ハンサムイースト』東京ビルさんぽ、fancomi(大福書林)
向島界隈を訪れる方は、味のある建物に興味を持つ方が多いからか、よく旅立つ本です。高度経済成長期に建てられたビルを中心に、団地や近代建築も取り上げられていて、ビル散歩に出かけたくなります。
●『父の時代・私の時代 わがエディトリアルデザイン史』堀内誠一(マガジンハウス)
アートディレクター、エディトリアルデザイナー、絵本作家の堀内誠一さんは1932年向島生まれ。父親のデザインスタジオ、祖父と乗った蒸気船からの眺め、職人の多い街の夕方の活気ある情景等が生き生きと伝わってきます。
駐車場や地下鉄に接していない、自力で集客するタイプの地下街を紹介したZINE。昭和の面影濃厚。矢印や文字のデザイン、文言の吸引力に惹かれます。特集の金沢都ホテル地下街は必見です。
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