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鴻巣友季子の文学潮流(第7回) 人間の本性、書くことの本質に迫る4作品 中村文則「列」、サール「人類の深奥に秘められた記憶」

©GettyImages

他人と自分を比べてしまうのは

 今月は人間の本性をつきつめる小説が目についた。

 たとえば、人はなぜ並ぶのだろう?
 社会を形作っているあらゆる序列、配列、隊列。人間はなぜ列をなすのかという問いに迫った小説が、中村文則の『列』(講談社)である。

 「その列は長く、いつまでも動かなかった。」
 物語が幕開けしたときには、すでに長い長い列がある。なんのために、だれが並んでいるのか、さっぱりわからない。人びとは自分の名前も忘れているようで、不条理文学 の典型である。中村文則は影響を受けた作家のひとりとしてカフカを挙げているが、『列』はなかでも最もカフカエスク(Kafkaesque) な作品のひとつだろう。

    ◇

 全体は3部に分かれている。人びとが延々と列に並ぶ第1部。ちょっとでも列を離れたら居場所はなくなり、並びから排除される。隣の列のほうが進んでいるように見えて、列を離脱する者もいる。人びとは固有名詞ではなく、語り手によって、「蟹に似た男」「タートルネックの男」「紫のワンピースの女性」「髪がカール」した青年などと呼ばれる。

 第2部の登場人物には名前がある。大学の非常勤講師である語り手は草間、彼の猿の生態観察を手伝う他大学の大学院生は石井、草間の元彼女は亜美と呼ばれ、読み進むうちに、第2部に出てくる人物はすべて第1部にいたこと、時間が遡行していることに気づくだろう。

 草間は准教授の椅子が空くのを待っている。15年間、大した研究もせず、アカデミアの列に漫然と並びつづけながら。しかしあるとき突然、列のはるか後方から草間をぽーんと跳び越えていく者があらわれる。草間は殺意を抱くのだが……。

 第3部には、群れから疎外された猿の孤高の雪世界が描かれ、第1部と2部が融合しだす。カフカには「ある学会報告」という、モノローグ形式の語りのなかで講師と聴衆が猿なのか人間なのか判然としなくなる一編があるが、『列』の第3部には『変身』への言及もあり、本作の基底部にカフカの世界観があるのを改めて感じさせる。

   ◇

 さて、列の本質とはなんなのか。第1部で語り手の男は言う。
 「自分が最後尾だったら、と想像する。耐えられない。最後尾なら、列に並ぶ意味はない。後ろに人がいなければ、列に価値はない」
 だから、他の者たちがいなくなり、自分が先頭で一番になれば嬉しいかというと、それも違う。「それだと君を喝采してくれる人もいなくなるから」

 その後、この列はなにかに到達するための並びではなく、ぐるぐる円環しているか、あるいは、前進することのないただの横並びなのではないか、という恐ろしい問いが発せられる。それは困ると人びとは思う。並びはどこかへ進むものでなくてはならず、自分の位置確認によって、なにがしかの満足感なり安心感なりを得られなくてはならない。

 いや、それはポジティブな確認とは限らない。人間は自分がだれかより劣位、下位にある根拠を得て、正当に嘆きたがってもいるからだ。第3部で、ある男が言う。「あなたの目的は並ぶことなんだ」「つまりあなたは、本当は……他人と自分を比べてずっと文句を言い、ずっと苦しんでいたいんだ」

 中村文則は『教団X』で「自分を他人と比べることの無意味さ」を書いたと言っているが、『列』では、順番というものから逃れられない人の稟性(ひんせい) がえぐり出される。

 人間には競い比べる性が内蔵されているのか。なにもかも捨て去り、欲望を失くして生きようとする人びとを描いた村田沙耶香「無」(『絶縁』小学館収録)を思いだす。人びとは「無街」というコミューンに参入し、なるべく個性のない恰好をし、なるべく多くのものを忘れ、なるべく自分を明け渡して、無私無欲の存在になることを目指す。手術を受けて、なるべく平均的で、性別もわからない容姿になる人たちもいる。

 こうして格差や差別のない社会を作ったはずが、手術を受けるにはお金が要り、「忘却」の達成度などで優劣ができてしまうのだ。どこまでも列はついてまわる。

「書く」ことにつきまとう「盗む」こと

 人はなぜ書くのか? 
 というのもまた、根源的な問いだ。このテーマを擁する強力な小説が2作、翻訳された。ノーベル文学賞候補と言われたクロアチア作家ドゥブラヴカ ・ウグレシッチ(本年没)の『きつね』(白水社、奥彩子訳)と、セネガル出身のフランス作家モアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』(集英社、野崎歓訳)である。

 “優れた芸術家は模倣し、さらに偉大な芸術家は盗む”といった金言があるが、「書く」という行為は「盗む」という概念なしには語れないのだろう。『きつね』は小説、エッセイ、論考などに作者の自伝的な要素が織り交ぜられた、6部仕立ての長編小説だ。とくにここで紹介したいのは、日本を舞台にした「物語がどのように生まれるかの物語」という第1部である。

 このタイトルは実在のロシア作家ボリス・ピリニャークの同名短編からとられており、語り手がピリニャークから聞いた話として始まる。ピリニャークは日本できつねの神社に参り、「きつねは狡知と裏切りの化身である。〈中略〉きつねは作家のトーテムだ」と書く。

 ピリニャークはタガキという日本人作家と偶然出会い、彼が書いた小説を読む。それは彼の妻のロシア人女性ソフィアの生活をタガキが四六時中こっそり監視し、情欲や下痢で身を震わせる姿まで克明に描きだした私小説であった。タガキはミューズ(ひらめきを与える詩神)であるソフィアの物語を勝手に「盗んだ」ことになるだろう。

 この手のことは、芸術史上、主に男性から女性に対して無数に行われてきた。ゼルダ・フィッツジェラルドしかり、ポール・ボウルズの妻ジェインしかり。しかし本作が込み入ってくるのは、ピリニャークがこの私小説とソフィアの自伝を併せ読んで刺戟され、それらを元に新たな小説を書いた、語りなおしたことだ。ここでも物語の奪用が起きている。

 そして最終的には、ウグレシッチがこのいきさつとピリニャークの小説を「盗んで」、「物語がどのように生まれるかの物語」という編が生まれることになる。作者とは、オリジナリティとはなにかを問うトリッキーな作品である。

剽窃で姿を消した作家と向き合うと

 『人類の深奥に秘められた記憶』は、剽窃の疑惑により文学界から姿を消した幻の作家を追い求める物語である。このセネガル出身の作家T.C.エリマンには文学界にモデルが実在するので紹介しておこう。

 ヤンボ・ウオロゲムという旧フランス領スーダン出身の作家だ。彼が1968年に20代で刊行した『暴力の義務』(邦訳、岡谷公二)は「ナケム」というアフリカの架空王国を舞台に、王たちの専横で残酷な統治ぶりを描き、ルノードー賞を受賞。アフリカ系作家初の快挙と絶賛されたのだが、やがてグレアム・グリーンやアンドレ・シュヴァルツ=バルトからの盗作疑惑がもちあがり、本はすべて回収され、本人も文学界から消えた。

 『人類の深奥…』に登場するエリマンはこれとまったく同じ転落の道筋をたどることになる。1938年、エリマンは23歳で、アフリカの王の暴虐な所業を描いた『人でなしの迷宮』を発表後、フランス文学界のスターダムを駆けあがり、「黒いランボー」などと称される。こんな秀作をアフリカ人が書けるとは思えないので実は白人なのだろうと酷い評判も立つが、そのうち、古代から現代までの「ヨーロッパ、アメリカ、東洋の過去の作家たちの文章を書き換えたものがちりばめられて」いると告発され、エリマンも文学シーンを去る。

 本作は、この作家の行方をセネガル出身の若い作家ジェガーヌ・ラチール・ファイが追う形で展開するが、語りの構造はじつに複雑だ。彼もウオロゲム、エリマンと同じく、西アフリカ(セネガル)からパリに出てきて、『空虚の解剖』というデビュー作で世に認められたのである。

 さらに、ここに重なってくるのが作者サール自身の存在だ。彼もまた、セネガルに生まれてパリの文学界に入り、若くしてゴンクール賞を受賞し、世界文学シーンでも大いに注目されている。

 エリマンはウオロゲムをモデルとし、ジェガーヌはサールを一部モデルとしているだろう。作者、語り手、作中作家、その実在モデルの4人によって、2組の合わせ鏡ができあがり、さらにこの4人は相似形をなしている。ここにジェガーヌが話を聞く第2、第3、第4……の語り手が入れ子状に登場し、物語の「真相」は永久に後退していくかに見える。

    ◇

 ウオロゲムやエリマンのしたことは、たんなる剽窃のパッチワークだったのだろうか? さらに踏みこんでいえば、サール自身がしたことはウオロゲムからの物語の盗用だろうか? 

 エリマンが深く憤ったのは、評論家たちが『人でなしの迷宮』は盗作か否かといった表層的な問題のみに目を奪われ、作品の真意を読み解こうとしなかったことだ。ある声が終盤で囁く。「『人でなしの迷宮』の形式上の構成、剽窃、借用、それはみな、心の真実を濁らせるものではない。〈中略〉彼の本の真実とは、とおまえは考える、一人の男の究極的な犠牲の物語である」

 書くのか、書かないのか。若いジェガーヌが問いかけられるシーンで本作は終わる。ある作家の人生とテクストに深く淫した彼が今後「書く」というのは、「盗む」行為と生涯向きあうということに他ならないだろう。

 ちなみに、当欄の第2回でとりあげた、アベル・カンタン『エタンプの預言者』(中村佳子訳、KADOKAWA)と、恩田陸『鈍色幻視行』(集英社)も、「創作」と「盗む」ことをテーマとしていたことも思いだしておきたい。2作とも忽然と消えた幻の作家を追い求める物語だった。