今年5月、友人が二十歳ぐらいの頃に住んでいた街に、行ってみたい場所があると言うので付いていった。私にとっても何十年かぶりに訪れる板橋区ときわ台は、ザ・東武東上線沿線の住宅街のイメージがあった駅前からして、すっかり洗練された装いに変貌していた。平成は遠くなりにけり。
付いていったのには理由があった。ときわ台にある書店+カフェの、本屋イトマイに寄りたいと思っていたからだ。本屋だけどプリンが名物、って、一体どんな店なの……?
築40年以上経っているというビルの階段を昇り、2階を目指す。木の質感を活かした店内は、なかなかの静寂に包まれている。友人と2人、案内されたのは2階の店のさらに2階部分で、屋根裏っぽくてなんだかワクワクする。友人はクリームソーダ、私はもちろんプリンとコーヒーを注文してしばし待つ。運ばれてきたプリンは見るからに密度が濃そうで、イヤでも期待が高まる(プリン好き)。
どれどれ。うひょー! おいしい! みっちりかつむっちりで硬さはしっかり、甘さとほろにがさのバランスも絶妙としか言いようがない。こんなけしからん(いい意味で)プリンを作る書店主、気にならないわけがない。
そしてこの店のもうひとつの特徴は、喫茶スペースは会話禁止(本屋スペースはOK)というルールがあること。友人とのやりとりは、テーブルに置かれていたノートを介して繰り広げた。でも友人とのやりとりより、誰かが書いたものを読むのが断然面白かった。青春時代よく行っていた喫茶店のノートを開くと、知らない誰かの言葉が溢れていて、見るたびにいろんな気持ちになったのを思い出したからだ。
というわけで、後日改めて、店主の鈴木さんに会いに行くことにした。
「すごい本屋」との出会いが道しるべに
店に到着すると、鈴木さんがちょうどプリンを仕込んでいるタイミングだった。時折オーブンの様子を見に行く姿から、とても手をかけて作っていることがよくわかる。
鈴木さんは山形市出身で、高校卒業後は市内にある東北芸術工科大学に進学した。高3の夏までは高校球児だったけれど。絵が好きで美大に進学したいと思っていたそうだ。
「進路を考える頃には野球のことはそこまで好きではなくなっていて、油絵と現代美術をやってみたいと思っていました。当時は村上隆、奈良美智、会田誠、大竹伸朗がブームで、自分も影響を受けていました。作家になりたいと思っていたし、賞をいただいたこともありましたが、卒業後は山形新聞社に就職しました」
CGデザイン室に配属された当初は、ちょうどDTPに移行するタイミングだった。それまでMacに触ったこともなかったものの、書籍や雑誌の新聞広告デザインなどを担当するうちに、仕事を覚えていった。
「3年間勤めましたが、東京に行きたいと思って。2005年に退社して、東京を目指しました」
転職先は決まっていなかったが、デザイン事務所で働くことがすぐに決まった。大手出版社の書籍や雑誌の、電車の中吊りなどの広告デザインを手掛けるようになったそうだ。
「学生時代は作品制作ひとすじで、本は美術書がメイン、小説を少し読むといった感じでした。社会人になってから本をたくさん読むようになり、その時に出会った作家の一人が、保坂和志さんでした。現代小説に描かれる世界に魅了されて、現代美術よりも奥行きがあるのではないかと思うようになったけど、その頃は本屋を始めようとは、夢にも思っていませんでした」
2015年の初め頃、下北沢のB&B で内沼晋太郎さんが「これからの本屋講座」をやっていることを知り、受講した。当時、今ほど個人書店は目立っていなくて、鈴木さんもB&BやSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSを意識する程度だった。しかしB&Bとの出会いは、鈴木さんに大きなものをもたらした。
「最初に入った時に『すごい本屋があるんだな』と思いました。B&Bは2013年からやっていたのに全然知らなくて。もっと早く知っていればと思いながら、受講することにしました」
一組2人まで来店可、会話はノートで
本に関わる仕事は長く続けられると思い、すぐに本屋を始めたい気持ちになった。一方で、自分の店を持つのは無謀ではないかという恐れもあったそうだ。
「不安もあったけれど、楽観的な部分もあって。書店員経験はもちろんあった方が良いと思いますが、ないからこそ型にとらわれない挑戦ができるかもしれないと思って。38歳の時に、デザイン会社を辞めました」
2018年に退職してから、業務委託として会社の仕事を手伝う傍ら、オープンに向けて動き出した。
コーヒーの淹れ方からスイーツメニューまで、自宅であれこれ試しつつ、B&Bでもインターンとして、店を手伝った。カフェや喫茶店を巡りながら、初台にある「フヅクエ」の阿久津隆さんが本屋講座の先輩だったこともあり、これまたフヅクエでも皿洗いをするなど、あちこちの店を巡った。
また高円寺にある「アール座読書館」という会話禁止のブックカフェにも多分に影響を受けたそうだ。
静かにコーヒーとスイーツを楽しみながら、お気に入りのページをゆっくりめくる。そんな贅沢な空間を、自宅からほど近くて新刊書店がないときわ台に作ろうと決めた。物件サイトを検索していると、かつては焼き肉店だった今の場所を見つけた。契約したのは、ちょうど結婚して子供が生まれるタイミングだった。
「スケルトン状態になってはいたものの、2階に入口があって。これがもう頑丈だったのですが、壊して1階にドアを造ることから始めました。水道と電気、柱部分と土台はプロにお任せしましたが、内装は自分と友人で手がけました。木は材質的に素人でも扱いやすいのと、アール座読書館に影響を受けて、今のたたずまいになりました」
2019年3月のオープン当初から、「カフェスペースは会話禁止」というルールを作ろうと思っていたが、なかなかそこまでは踏み切れなかった。その後コロナ禍が到来したこともあり、自発的に協力してくれるお客さんが多く、意外にすんなり定着したという。
これからも続く、ワンオペの試行錯誤
カフェも併せて約80平方メートルの広さに在庫は約4000冊。地域唯一の新刊本屋でもあるので、絵本など子供向けの本も充実している。トーハンと契約できたことで、幅広い品揃えがかなっている。デザイン関係やZINEなども手抜かりがない。
書店側の本は購入してからカフェスペースに持ち込み可能だが、カフェの方にも古本があるので、ただコーヒーを飲みに来ても退屈することはない。私も読みたかったマンガの続巻をまとめ読みできて、友人と口を利かずとも充実した時間を過ごせた。靴を脱いであがる「2階」の心地よさに、うっかり寝てしまいそうになったほどだ。
スポットのアルバイトはいるが、基本的には鈴木さんのワンオペだ。おいしいものを供したくて試行錯誤を重ねたプリンだが、今後はレシピを変えるかもしれないと鈴木さんは語った。子どもの成長に従って、かけられる手間や時間も変わるからだ。
「いざ本屋を始めてみたら予期せぬアクシデントが起きたり、予定通りに進まなかったりすることもあって。その自由さ加減が現代美術の制作に似てる気がするんです。1人でやりたくてやっていたので、以前は『ここまで全部1人でやってる書店主はいないかもしれない』と思っていました」
「でも三軒茶屋のtwililight さんとか三鷹のUNITEさんとか、本屋とカフェとギャラリーとイベントなどを並行しているオーナーの存在を知り、上には上がいると実感しました。店を始めてから6年ですが、『まだまだこれからだな』のひと言に尽きますね」
オンラインでの本や雑貨の販売や読書会など、今後やりたいことはいろいろあると鈴木さんは言う。これからどんな感じになっていくのかは未知数だけど、今あるものが永遠にあるとは限らないのは、本屋もメニューも現代美術も一緒。ずっと変わらない場所がある一方で、次々と変化していく場所もある。
でも何より大事なのは、お客さんとの関係がずっと維持されることではないかな。味と形は変わっても、「うひょー!」という出会いをもたらす空間であることは、きっと変わらないはずだ。丁寧に丁寧にプリンの火加減を見ながら、静かに熱く語る鈴木さんの傍らで、私はそんなことを考えていた。
鈴木さんが選ぶ、いとまを作って読んでもらいたい3冊
●『百年の孤独』ガルシア・マルケス(新潮社)
読んだのはもう20年近く前。若さと勢いで読破した。読む前か読んだあとかで景色すら全く違って見えてくる怪物本。文庫になっても内容は変わらない。挫折する覚悟が前提なら問題なく手に取りやすい、一族の歴史を描く一大サーガである。
●『『百年の孤独』を代わりに読む』友田とん(早川書房)
今となっては有名なこの本。本家と時を同じくして驚愕の文庫化。ZINEが階数をすっとばして文庫になるのは異例中の異例だろう。『百年の孤独』を挫折してしまいそうになったら、ぜひ本書を。必ずや真摯に「代わりに」読んでくれることだろう。
●『『『百年の孤独』を代わりに読む』を代わりに読む 』関口龍平(本屋lighthouse)
読むということは代わりに読むということであるという発見。いや、読むということは結局何も読まなくてもいい、ということなのか。いやいや、永遠に続くパラドクスのようなものか。間違いなく言えるのは、それはめちゃくちゃおもしろいということ。