〈最初の結婚はなぜ破綻(はたん)したのか〉〈「不敬事件」はなぜ大騒ぎになったか〉〈戦争はすべて否定したか〉……。
キリスト者・思想家の内村鑑三には、様々な「謎」がある。この本では24の謎を取り上げ、回答というより、接近を試みた。70年読み続けてきた著者の余裕が感じられる。
〈最初の結婚〉。その破綻について、内村は自伝に書いていない。本人や親族の手紙から事実関係を推測した。
〈不敬事件〉。1891(明治24)年、第一高等中学校の教員だった内村は、教育勅語奉読式で十分な「敬礼」を尽くさなかったと非難された。それから2年半、教育と宗教をめぐる論争が続き、事件は何十倍にも喧伝(けんでん)され、内村は窮境に追い込まれた。
〈戦争〉。内村は日清戦争を義戦として肯定した。しかし、それを後悔し、日露戦争前に自らは「戦争絶対的廃止論者」と表明した――。
内村の著作と出会ったのは郷里の愛知県から上京したあとだ。いくつも教会に行ったが、ぴったり来なかった。「内村は学問をひけらかしたり、飾り物的な言い方をしたりしない。本物だと思いました」
ひと夏かけて著作集全21巻を読んだ。東京大大学院で宗教学・宗教史学を専攻する。
没後50年に出た『内村鑑三全集』全40巻に、編集委員として携わった。1日ごとの記録を刻んだ『内村鑑三日録』全12巻は一人で書き上げた。そんな“基礎作業”のあとで評伝『内村鑑三の人と思想』を著した。今度の本は「ひとひねりして、あまり気張らずに書きました」と話す。
それがよくわかるのが〈人生相談には応じたか〉の謎。志賀直哉は、内村の聖書研究会に7年間出席した。ある女性と関係ができたと相談すると、内村は「困ったなあ」と笑いながら嘆息したという。
「いちばん好きな内村像ですね。教えないし、指示しない。私は、内村が亡くなった年より20歳上の、89歳になりました。若い頃は仰ぎ見て、手放しで尊敬する面もありましたが、もう手放しじゃない。内村と会えたら『やあ』と話したい。日本に生きた、話の通じ合える一人の人間、というのが帰結でしょうか」(文・石田祐樹 写真・篠田英美)=朝日新聞2024年9月7日掲載