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逸木裕「彼女が探偵でなければ」 次代を担う作家が示す最高到達点、単純な二項対立にしない物語の厚み(第19回)

©GettyImages

ギミック、プロット、トリック、すべてを備えている

 現代におけるミステリー短篇集の最高到達点ではないかと思うのだ。
 逸木裕『彼女が探偵でなければ』(KADOKAWA)は年間を代表する傑作なので、ぜひ読んでもらいたい。
 これは私立探偵・森田みどりを主人公とする連作集の第2弾で、第1作の『五つの季節に探偵は』に収録された「スケーターズ・ワルツ」は2022年に第75回日本推理協会賞短編部門を受賞している。同書も良作であったが、続篇の『彼女が探偵でなければ』はさらに凄い。小説としてもう一段上の領域に踏み出している。
 収録されている5篇のうち「陸橋の向こう側」は「小説 野性時代」特別編集2022年冬号に掲載された。一読してびっくりし、日本文藝家協会が編纂する年間アンソロジーに推薦した。分量があって中篇の長さなので、本当はアンソロジーには不向きである。長くても原稿用紙60枚くらいまで、という暗黙の了解があり、「陸橋の向こう側」は90枚ぐらいある。でも推した。一緒に推した千街晶之氏も「私はこれを入れるために今日来ました」と言って推した。結果、『雨の中で踊れ 現代の短篇小説ベストコレクション2023』(文春文庫)に収録されたのである。傑作だから入って当然だ。

「陸橋の向こう側」は森田みどりが商業施設のイートインスペースで仕事をしているときに、中学生くらいの少年が開いたままのノートを置き忘れていると気づくことから始まる話である。みどりはそれを見てしまう。彼女には人間のしていることを知りたい、理解したいという好奇心があって、そのためにしばしば厄介事に巻き込まれるのだ。そして見たことを後悔する。
〈父を殺す。絶対に悪魔を殺してやる〉
 これはまだ序盤だが、以降の展開は書かない。少年の名は颯真(そうま)といい、殺そうとしているのは実の父親だ。彼の心に生じた狂気を鎮めようとしてみどりは手を尽くす。題名にある「陸橋の向こう側」とはみどりが見たことがある出来事から来ている。彼女はかつて、陸橋で異様な雰囲気をまとった男を見た。仕事中だったので声をかけることはできなかったが、彼はその後に女性を刺し殺してしまった。自分が一言声をかけていれば、女性を死なせることはなかったのではないか、とみどりは思い悩んだのである。こう書く。
〈陸橋の向こう側に行ってしまったら、もう取り返しがつきません。探偵の仕事をやっている中で、わたしは戻れなくなった人を大勢見てきました〉
 本書収録作には、若者が事件に関わっているという共通点がある。結婚し、1児の母であるみどりは、彼らよりもちょっと年上だ。若者が犯罪に巻き込まれて道を踏み間違えるのを、どうしても彼女は看過できない。
「陸橋の向こう側」はミステリー的な結末も素晴らしいのだが、しめくくりが綺麗であるということだけが美点ではなく、むしろそこに到達するまでのプロットを賞賛すべき小説である。どうしても颯真を放っておけなくなったみどりは、彼の身辺を調査する。ここが私立探偵を主人公にしてある所以で、事実関係がゆっくりと明かされていく過程に読みどころがある。颯真が殺意を抱くに至った理由はその調査によって判明するのだが、ここから結末の驚きに向けて読者を誘導していく手つきが素晴らしい。物語の筋が太すぎて、読者はその背後にある真相に気づけないのである。みどりの切迫した心情が描かれることで、さらに焦りも生じてくる。人間ドラマの盛り上がりとミステリーとしてのからくりとがこの上ない形で融合しているのである。
 これだけでも十分素晴らしいのに、冒頭から続く「殺人計画者と探偵とがノートを通じてやりとりをする」というギミックも加わっているわけである。ギミックだけで読者を驚かそうとする小説には真似のできない厚みが本作にはある。ギミック、プロット、トリック、すべてを備えたミステリー短篇なのだ。

心をもっていかれる文章の美しさも

 雑誌掲載作はもう1つある。巻頭の「時の子」がそれだ。これは「小説 野性時代」特別編集2023年冬号に発表された。これがまた、傑作だったのである。「陸橋の向こう側」と同等か、それ以上に凄い短篇だ。
「時の子」の主人公九条瞬は、時計職人の父・計介と一緒に暮らしていた。60日前まで。その日に計介が心筋梗塞で急死したため、ひとり残されてしまったのである。父の開いた時計店に住み続け、時計の手入れや修理をして暮らしている。森田みどりが店にやってきて、瞬と知り合う。彼女はかつて計介から仕事の礼として時計を貰っていた。その修理を依頼に来たのだ。初対面の2人が話しているうちに、瞬が自分にまつわるちょっとした出来事を打ち明けるまでの会話が実に自然でいい。
 この作品の美点は、ぽつり、ぽつりと語られるところである。瞬は能弁な主人公ではなく、むしろ他人とのつきあいを避ける傾向にある。幼馴染の岩崎美桜と交際したこともあったが、その性格ゆえにすぐに別れてしまった。そんな彼が、べらべらと自分について話すのはおかしい。だから断片的にしか情報は出てこないのだ。
「目が覚めてから最初にすることは、部屋の電灯を消すことだ」という冒頭の1行を読者は見て、おや、と思うだろう。点ける、じゃないのかと。それは瞬がみどりに話す出来事に起因する習慣なのである。その会話に到達するまで、読者は宙ぶらりんの感覚のまま放置される。途中で瞬に母親が電話をかけてくる。計介が死んだため、瞬は彼女と同居することになっているのだ。電話の中で母親は言う。「今度こそ、普通の家族になろうね」と。この言葉の意味も、ずっと後まで放置される。こうした要素が積み重なり、サスペンスを醸成していくのである。
 ひとつの発見によって世界が転覆されるような感覚を味わわせるタイプのミステリーだ。綺麗に反転するだけではなく、後に余韻を残す。ネタばらしになるので曖昧に書くが、人間観をひっくり返すタイプのミステリーは、単純な二項対立になっていることが多い。それまで悪だと思っていた相手が、実は善人だったというような。そうした単純化に陥らず、他人を理解するとさらに複雑な心理が見えてくるという構造がいい。
 さらに言えば描写、表現もいいのである。たとえば瞬がみどりから、父の試作品である時計を受け取る場面では、その無駄のない機能美の構造が「風の中に手を突っ込んで、そこから抜き出したような時計」と書かれる。この、文章の美しさにも心をもっていかれた。最高到達点、と言いたくなる理由、わかってもらえるだろうか。

 2篇に触れただけで、書き下ろしの3篇に言及する余裕がなくなってしまった。それだけ充実した作品だったということでお許し願いたい。残り3篇ももちろん素晴らしいのだが、中でも「太陽は引き裂かれて」に脱帽させられた。現在社会問題となっている埼玉県川口市のクルド人排斥が扱われていて、差別感情を煽る落書き犯をみどりの後輩である須見要が追うことになる。ここでも単純な二項対立で世界を理解しないという逸木の姿勢が通されており、複数のミステリー技巧による演出が厚みのある物語創出に貢献している。これも雑誌に発表されていたら、年間アンソロジーに採りたいと思ったはずだ。
 逸木裕は2016年に「虹になるのを待て」で第36回横溝正史ミステリ大賞(当時)を受賞し、改題した『虹を待つ彼女』(角川文庫)でデビューを果たした。新人のときからこなれた書き手ではあったが、ここまで成長するとは正直思っていなかった。不明を恥じる。この後も、とんでもなく化ける可能性がある。2023年末に発表した長篇『四重奏』(光文社)も良作であった。次代を担う作家として逸木裕の名はぜひご記憶願いたい。