候補作の充実度には文句がない
第172回直木賞の選考会が1月15日に行われる。
今回の候補作家は、ノミネート回数の最多が木下昌輝で4回、最少が初めての荻堂顕で、それ以外の3人は全員が2回と、比較的新しい顔ぶれになった。直木賞は時に迷走する。話題性はあるものの内容の伴わない作品を候補に挙げてくる回もあった。大衆文学の最先端をきちんと把握しているのか心配してしまいたくもなるのだが、第172回については納得の候補作になったと思う。
- 朝倉かすみ『よむよむかたる』(文藝春秋)2回目
- 伊予原新『藍を継ぐ海』(新潮社)2回目
- 荻堂顕『飽くなき地景』(KADOKAWA)初
- 木下昌輝『秘色の契り』(徳間書店)4回目
- 月村了衛『虚の伽藍』(新潮社)2回目
女性作家が執筆歴の長い朝倉かすみだけになったのは残念で、宮島未奈など若手を積極的に候補にしていかなければ賞の広がりはない。しかし、正統的な時代小説として木下昌輝『秘色の契り』あり、高齢化社会の現実を背景とした朝倉かすみ『よむよむかたる』あり、連作の形で現代の世相を掬い取った伊与原新『藍を継ぐ海』あり、と多様な作品が候補になっており、それぞれの充実度には文句がない。2025年は昭和100年であるが、荻堂顕『飽くなき地景』は戦後から高度経済成長期、月村了衛『虚の伽藍』は狂乱のバブル経済期と、偶然ながらリレーのようにつないで現在に至るこの国のありようを浮き彫りにしている。5作の併読によって、2025年の自分がどこに立っているかを知ることもできるだろう。それぞれの作品について、詳しく紹介していく。
高齢者の読書会描き、本領発揮 朝倉かすみ「よむよむかたる」
新人賞を獲ってデビューしたものの、ある出来事のために書けなくなってしまった駆け出し作家の安田は、姉が函館で経営する古民家カフェの雇われ店主となる。そこでは読書会が毎月開かれていた。最年長92歳、会員はすべて地元在住の老人である。新型コロナウイルス蔓延の影響もあって中断していた会が再開し、佐藤さとる『だれも知らない小さな国』が課題作として選ばれる。成り行き上、安田もこの会に参加することになるのである。
この読書会の特徴は「読み」の時間があることで、毎回誰かが当番になってテキストを朗読する。この読みが安田にとっては新鮮に響くのである。解釈のためというより、テキストをそれぞれの心に染み入らせるようにそれは読まれる。安田が書けなくなったのは、あなたの小説はひとりで書いたものか、という剽窃を疑うような文面の手紙が編集部に届けられたためだった。自作がどこから来たものかについて思い惑い始めていた安田は、読者として会に参加することによって小説観を新たにしていく。安田の物語はそのように展開する。
会の参加者はみな後期高齢者ばかりで他人の話をまったく聞かないため、会は共同体として機能していない、ように安田には見える。安田と老人たちの間には距離がある。それを拙速で近づけようとせず、安田が彼らの人生や性格をゆっくりと理解していくという形で共同体は再構築されていく。朝倉には『にぎやかな落日』(光文社)という自身の母をモデルにした老人小説があり、本作は高齢者を描いた長篇第2作ということになる。前回候補になった『平場の月』(光文社)は大人の恋愛小説であったが、朝倉の本分はむしろ、世の中にはさまざまな人がいるのだという当たり前の事実を冷徹に観察し、ユーモアの感覚を交えて綴るところになる。そうした意味では高齢者の生態をゆとりある筆致で書いた『よむよむかたる』こそ、本領発揮の1作なのである。安田のゆっくりとした成長も描かれ、読後感も非常にいい。
各地の人々の暮らしを通じて現代の日本を描く 伊与原新「藍を継ぐ海」
伊与原も2020年下期の『八月の銀の雪』(新潮社)に次ぐ2回目の候補である。先般、『宙わたる教室』(文藝春秋)がドラマ化された。定時制高校を舞台に学ぶことの尊さを描いた群像小説で、宇宙物理学のいろはを登場人物たちが学んでいく過程が物語の縦糸として使われていた。そのように科学的知識を小説の土台に用い、その上に人間ドラマを築き上げていくのがここのところの伊与原の作風である。言い換えると、科学的知識の応用なしに人間の生活はありえないので、土台に1回戻ってみることで自分たちのありようを再発見し、成長を遂げていく物語になっているということだ。『藍を継ぐ海』に収録された5篇もそうした物語である。表題作は、ウミガメの産卵が中心の話題になっており、主人公の成長に対する不安がそこに重ね合わされる。青春小説としてはよい出来の短篇だった。
伊与原には過去にも同趣向の短篇集が複数冊あるが、本作はそれらを上回る出来である。各篇に地域性と歴史の要素が加わったことが大きい。私が最も評価するのは「祈りの破片」と「夢化けの島」で、前者は長崎県彼杵(そのぎ)地方、後者は山口県萩市とその海上にある見島が舞台となる。「祈りの破片」では放置された空き家に大量のがらくたが放置されていることがわかることから話が始まる。実は長崎に落ちた原爆の影響を受けた遺物を収集したもので、元の所有者は何者だったかということが問われるのである。「夢化けの島」は萩焼作陶にまつわる物語なのだが、そこに地質学研究者の視点が入ることで話が立体的になっている。どの話もこのように、その土地ならではの歴史が物語と深く結びついているのが特色である。
「祈りの破片」の主人公は地方公務員で、住人のいない「特定空家」の対策をしているという設定だ。つまり住民減少の実態が作中に盛り込まれている。どの作品にも人々の暮らしを通じて現代の日本を描くという姿勢が共通しており、その点も好ましい。
戦後日本と対比する精神性 荻堂顕「飽くなき地景」
荻堂はこれが第4長篇となる新鋭で、過去作はすべてSF的設定が盛り込まれていた。本作で始めてそれのない純粋な現代小説を書いたことになる。「地景」は馴染みの薄い言葉だが刀剣に関する美術用語で、刀剣に用いられる玉鋼を折り返し鍛錬する際に生じる、ひび割れのような黒い線状の模様を言う。均一な刀身の中に生まれる不均一を尊ぶという美意識である。本編の主人公である烏丸治道は、誰もが新しいものや富貴を追い求める中、それに背を向けて日本刀など祖父の蒐集した美術品を保存し、後世に残していくことだけを目的として生きようとする。物質を通して精神性を描いた作品だ。そうした精神性と対比されているのが、経済の論理1本で作り上げられた戦後の東京、そして日本である。
3部構成であり、戦後間もない1954年、オリンピック前夜の1963年、バブル期前夜の1979年とそれぞれの時代が描かれる。治道は祖父から受け継いだと考える粟田口久国の無銘刀に執着しており、それを巡る物語が各部にゆるかな連関を作っているが、ミステリーのように堅固な構成のある作品ではない。治道の父が放蕩したために烏丸家には複雑な人間関係が生じる。それを巡る物語であり、家族小説の要素も強い。
叙述は治道の〈僕〉という1人称で行われる。ただし、歳月の経過に伴って〈僕〉が成長した形跡はあまりなく、各部で同じ人物が語り手を務めているようにも見える。この点がちょっと不思議な感じで、ずっと〈僕〉は青臭いのである。細部に対する作者の執着も感じ、実名を用いながら当時の東京が詳細に描かれている。それがあるからこそ昭和の小説として成立するのである。〈僕〉の視点は時に思索的になることがあり、事態の中で彼にしかわからない内省に耽ることもある。このへんが読者によっては苦手に感じることもあるだろう。物語を創る強い膂力のある書き手なので、流れに身を任せて読んだほうが楽しめる。
歴史上の人物の空白に物語性を盛り込む 木下昌輝「秘色の契り」
木下は4回目の候補である。「阿波宝暦明和の変顛末譚」と副題にあるように、幕藩体制が折り返し点に差し掛かった18世紀中盤を舞台にしている。徳島藩主が2代続けて早逝し、秋田藩主の弟である岩五郎が養子に決定、蜂須賀家第10代重喜となる、というのは発端だ。この重喜は儒学を好むが政は嫌いという変わり者である。当時の阿波藩は5人の家老によって治められていたが、経済的な悪循環へと追い込まれていた。若手の家臣たちは改革を志し藩主の親政体制を期待するが、肝腎の重喜は少しも乗り気になってくれない。この変わり者の藩主をどうやって動かすのか、というのが話の肝になっていく。
重喜は謎の多い人物で、毀誉褒貶も激しい。歴史上の人物の空白に着目して、そこに物語性を盛り込んだことが成功している。変人の重喜と、彼を支える家臣の柏木忠兵衛が、さながらホームズとワトスンのような理想の関係を組んでいることが大きいだろう。『秘色の契り』とは藩主と家臣の間に結ばれた誓約なのである。18世紀には江戸幕府の農本主義が大きく揺らぎ、そのために各階層で軋轢も生まれた。この時代の実力者が商業を重視した田沼意次であることの意味は大きい。物語にも架空の人物だが、武士ではなくて商人がこの世を動かすべきだと考える唐國屋金蔵という怪人が登場する。金蔵の策略が物語に伝奇小説的なうねりを生じさせるのだが、その反面で彼が最も世界が見えている現実主義者であるというのがおもしろい。ひとりのキャラクターが矛盾なく虚実両面を表しているのである。
時代の変化に気づかない者が危機を生み出すという物語でもあり、現代に警鐘を鳴らす意味合いも備えている。過去候補になった3作はいずれも戦国から江戸初期の物語であったが、現代をも視野に入れられる近世の作品が初めて挙がってきた。受賞はありうると思う。
正義とはなんと恐ろしいものか 月村了衛「虚の伽藍」
乱暴に言えば月村には2通りの作品がある。前回候補となった『香港警察東京分室』(小学館)のようなジャンルに属するものと、2018年の『東京輪舞』(小学館)以降に書き始めた、社会の全体像が描きこまれた総合小説である。後者は山崎豊子や城山三郎など、娯楽の中心として大衆小説があった時代の、人気作家の力強い作風に回帰したものと見ることもできる。月村は犯罪小説の技法を用いて社会に独自の切断面を作り、物語化することに挑戦し続けている。『虚の伽藍』で題材とされているのは宗教法人の闇である。それもカルト教団ではない。日本を代表する伝統仏教の最大宗派・燈念寺派という架空の宗教法人が舞台である。
主人公の志方凌玄は、燈念寺派本山の総局部門に属する若手の僧侶だ。その彼が燈念寺派の幹部が絡む不正に気付いてしまう。そのために睨まれ、一時は社会的に葬られてしまいそうになるのだが、思わぬ勢力が手を差し伸べてくる。地元京都を牛耳るフィクサーと彼と交流のある広域暴力団である。悪を誅するためにはそれを上回る悪の力を借りることも必要と判断し、凌玄は彼らと手を組む。それによって教団の中でものしあがっていくのである。本作の肝は、存在としては悪の側の住人となった凌玄が自身の正しさにいささかも疑問を抱いていない点にある。彼の中ではすべての行為が正当化されるのである。正義を志す者が一線を踏み越えて悪の側に、というありきたりなスリラーとはその点一線を画している。最初から最後まで凌玄は信念の下に行動しているからだ。正義とはなんと恐ろしいものか。
彼が頂点に昇りつめていくまでを描く成功物語で、部分的なプロットのひねりではなく、全体の流れの太さ、激しさで読ませる作品になっている。ここまで豪快な長篇というのは近年でも珍しく、候補作中でも異彩を放っているほどだ。娯楽の本道に小説を戻せるかという大きな挑戦を行っている作家であり、ぜひ真っ当に評価してもらいたい。
突出した勢いのある「虚の伽藍」が議論の軸に?
小説の柄では文句なく『虚の伽藍』で、広範な層におもしろいと言ってもらえる作品だと思う。これに匹敵しうる物語の魅力があるのは『秘色の契り』だ。こちらは主従の関係や、世界を変えたいと願う者たちの闘いという図式で訴えかけるものがある。『飽くなき地景』はプロットのひねりを敢えて捨て、年代記形式で主人公とその係累の変化を見せていくことに注力したのが成功しているように思う。ただ、紹介のところでも書いたように娯楽小説としては語り口がこなれておらず、読者に伝わりづらい観念的な箇所があることが気になった。『虚の伽藍』、『秘色の契り』には一歩譲る。
それとは別の観点から評価したいのは『藍を継ぐ者』で、これも書いたように現代の世相をうまく切り取り、科学と歴史という一見食い合わせの悪そうな道具を使って綺麗にまとめている。総合点が高いのである。三題噺の佳作集とでも言うべきか。
現代性という意味では、高齢者の小説である『よむよむかたる』も高く評価しておきたい。これは社会をあえて前景に出さず、人間観察と物語についての考察という部分で勝負した小説だ。しかし愛すべき登場人物たちと触れ合っていくうちに、高齢者たちの現実というものが見えてくるし、多様性を共存して生きることへの思索も深まる。愛すべき良品である。
選考では、突出した勢いのある『虚の伽藍』をどう遇するかが議論の軸になるのではないだろうか。主人公が協力者の手を借りて次々に難を逃れていく展開は本宮ひろ志的というか、劇画的にも見えるので、そこを難じる選考委員がいてもおかしくない。いろいろな裏社会の住人と聖職者である主人公が手を結んでしまうところにこの作品の諷刺性はあるのだが。しかしそうした意見を吹き飛ばすものがこの作品にはあると考える。
同時受賞もありうると思う。そうなったときに選ばれるのは小説の種類がいちばん近い『秘色の契り』や年代記という点が共通する『飽くなき地景』ではなく、連作短篇集の『藍を継ぐ海』か『よむよむかたる』ではないか。風合いが『虚の伽藍』とまったく違う後者が選ばれるのでは、というのが私の考えである。
さてこの予想、当たるか外れるか。1月15日の選考会に注目いただきたい。
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