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片島麦子「ギプス」 友情と囚われた気持ちの不自由さ、適温で描く(第29回)

©GettyImages

ふんわりと読者の期待を裏切る

 あれ、怪我をしたときはめるのってギブスだったっけ、ギプスだったっけ。
 正解はギプス。長篇『ギプス』(KADOKAWA)の作者は片島麦子。2013年に『中指の魔法』(講談社)でデビューした作家で、作品数はそれほど多くないが見逃せない小説を書き続けている。2023年に発表した前作『未知生さん』(双葉社)は、今はこの世にない男性を偲ぶ人々の証言から彼の姿が浮かびあがってくるという、肖像小説の佳作だった。当然、『ギプス』も期待して読む。読むに決まっている。
 読みながらぼんやりと感じたのは、今度はモティーフの小説なのだな、ということだった。大小さまざまのギプスが小説内に出現する。
「ギブスをした客が暴れている」と学生バイトの南野くんが、休憩室に飛び込んでくる場面から物語は始まる。南野くんは間違っている。正解はギプスだから。〈わたし〉こと間宮朔子は書店員で、そのときは休憩中でかつ食事中だったから事態をやり過ごそうとする。だが、やり過ごせない。どうやら暴れている客は、朔子を出せ、と言っているらしいからだ。
 やむなく顔を出すと、右腕にギプスをした女性が確かにいた。女性は「はじめに断っておきますけど、隠さないほうが身のためですからね」と初対面にもかかわらず失礼なことを朔子に言う。何を隠すというのか。葛原あさひの居場所だ。女性は鳴海という名で、その葛原あさひの姉なのだという。妹がいなくなったので、中学時代の親友のところにやってきたというわけである。朔子は反射的に「嘘です」と言い返す。中学時代に葛原あさひは転校し、以来一度も連絡を取ったことがないのだ。朔子は思う。
――あさひがわたしのことを友だちだと、ましてや親友だなんて云うはずがない。あさひは嘘つきだった。息をするように嘘を吐く、そういう子だった。
 この迷惑な鳴海という女性に朔子がつきまとわれ、なんとなく葛原あさひ捜しをしなければならなくなる、というのが最初の「朔子」の成り行きだ。本作では、現在パートの「朔子」章と、彼女の中学時代を描いた「少女」章が交互に配置される形式で話が進行していく。主要登場人物は朔子と、最初の章には不在のあさひである。
「少女」の章では、中学2年のクラス替えで朔子と同じクラスになったあさひが登場する。国語教師の平井に呼び出された彼女は、なぜかそれほど仲が良くもない朔子に一緒に来てくれるよう頼んでくる。平井の用件は、あさひに朗読劇への出演を勧めることだった。あさひは「演劇も朗読も、結局はそこにないもの……嘘を演じるってことですよね。わたし、嘘は嫌いなんです」と言下に断る。同行の礼にアイスをおごってくれながら、「わたし、物語なんて必要ないんだよね」「生きてるだけで精いっぱいだよ」と彼女は漏らした。
 朔子はその言葉を、あさひも生きづらいのか、と意外な気持ちで受け止める。朔子もまた、両親と妹との4人家族の中に自分の身の置き場がないように感じていたからである。思いきってあさひに「だったら逆に、物語が必要ってことにはならない?」と質問してみる。あさひとそれで意見が完全に一致することはないが、距離はちょっと縮まる。あさひのアイスは当たり、朔子ははずれ。ふたりの物語はそこから始まる。

 こんな感じに始まる小説だ。現在パートはあさひを探す物語なので、どの時点で彼女は姿を現わすだろうか、と予想しながら読むことになる。そうなると当然、読者の頭にはひとつの疑問が浮かんでくるはずだ。なぜ間宮朔子と葛原あさひは親友ではないのだろうか。だって、「少女」の章はとてもいい感じなのだから。ここからふたりが親友同士の間柄になっていくとしか思えない出だしなのだから。なぜ大人になった朔子は、あさひが自分のことを親友と言うはずがない、と断定できるのだろうか。小説の技巧として素晴らしいのはここで、浮かんだ疑問符を解消したくてたまらない気持ちが、読者にページをめくらせることになる。
 現在パートである「朔子」を読むと、ギプスというモティーフは彼女の状況を表すものであることがわかってくる。人付き合いが上手くない彼女は、職場でも要らない荷物を勝手に背負わされるような目に遭っている。悩みの種の一つは店長で、セクハラとパワハラのミックスジュースのような行為を仕掛けてくるのである。ただし果汁濃度のあまり高くない、つまり決定的な行為に及ぶわけではないハラスメントなので、面倒事の嫌いな朔子は表沙汰にして抗議することもできず、日々黙って耐えるしかない。どんよりと気分が悪くなる。そうした鬱陶しさ、なぜこうなってしまったのかわからない自分を締めつけるものが、朔子のギプスなのだ。
 鳴海の登場はそうした日常に風穴を空けてくれるように最初は見える。軽率で野蛮な登場人物によって事態が動くというのは小説の定型だからだ。だが、そうはならない。最初の「朔子」章は結構意外な形で幕を下ろす。『未知生さん』のときにも感じたが、片島は読者の期待を裏切る展開を書くのが巧い作家だ。呆気にとられているうちに場が展開してしまうし、そこはかとないユーモアも漂っているので、ふんわりとした気持ちで先を読まされてしまう。これもまた技巧として優れている点である。

濃密な文章を味わう小説の醍醐味

「少女」の章が物語の鍵となるので、中学2年生のふたりに何が起きるのかは書かないことにする。ただふたつ、印象に残る場面があることだけ書いておこう。ひとつは、バドミントンの場面だ。あさひは朔子に誘われて同じバドミントン部に入る。あるとき、ふたりは練習で長いラリーをする。その日朔子はあさひに腹を立てていることがあって、少し意地悪な打ち方で彼女を翻弄してしまう。この場面が実に密度高く書かれていて感心するのだが、物語の後のほうでもう一度同じ時間のことが、今度はあさひの側から描写される。そこがとてもいいのだ。
 同じ時間を過ごしていても、思いまで共有しているとは限らない。むしろばらばらであることのほうが当たり前だろう。そのことを思い知らされる。ラリーを通じてあさひが何を考えていたのかがわかると、その場にいるふたりがとても親密に感じられる。飛び交うシャトルが目の前に浮かび上がるような感覚もある。遡って朔子側の描写も読み返したくなる。小説を楽しむというのは、こういう濃密な文章を読むことなのだ、と納得もする。
 もうひとつ印象に残ったのは、朔子があさひの出演しなかった朗読コンクールを観に行く場面だ。『銀河鉄道の夜』が朗読される。「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」と呼びかける朗読者の姿が一瞬あさひに重なってしまい、朔子は「はじかれたように立ちあが」ってしまう。先行作品の引用が実に効果的であり、ここも巧いなあ、と嘆息した。友情の物語で『銀河鉄道の夜』はずるいだろう。嵌まりすぎだもの。

 ギプスはこのあともう一度出て来て、そこで物語の全貌が明らかになる。モティーフをとことん転がすなあ。親の意見と茄子の花は千にひとつも仇がないというからなあ、それは少し違うか。まさしく技巧の詰め合わせであり、ふたりの違った心を持つ人間が友人になるというのはどういうことかを、そして何かに囚われた気持ちの不自由さを、適温の文章で書いた小説としてとても好ましく読んだ。大人はもちろんだが、これから長い時を過ごす10代のみなさんに、ぜひ読んでもらいたいと思う。
 ちなみに読みながら、あ、似てるな、と連想したのは漫画だが、つばな『第七女子会彷徨』(リュウコミックス)だった。こちらもふたりの少女の物語で、何がどう似ているかは最終巻まで読むとわかると思う。素晴らしいSF幻想連作なので、こちらもよかったらぜひ。