本に出会う 軍国少女の記憶を伝える責任感 梯久美子
NHKの連続テレビ小説「あんぱん」は女学生時代のヒロインを軍国少女として描いて話題になった。彼女は愛国の鑑(かがみ)と呼ばれるようになるが、そのきっかけは、級友たちに呼びかけ、慰問袋を作って戦地に送ったことだった。
日用品や手紙などを入れて前線に届けられた慰問袋。その中には彼女たちのような若い女性からのものもあった。
詩人の石垣りんは戦後、ある会合で男性から声をかけられた。その人は戦地にいた時、慰問袋に入っていた小冊子で彼女の詩を読んだという。エッセイ集『ユーモアの鎖国 新版』(ちくま文庫・990円)所収の「花よ、空を突け」にあるエピソードだ。
少女時代に石垣が投稿していた雑誌の版元は、慰問袋用の小冊子を刊行していた。そこに彼女はこんな詩を寄せていたのだ。
〈ひかり弾丸(たま)と降れば/一兵の意志もて顔を上げよ。/風に透明な血潮を流し/匂い絶つ日にも/進路そこに展(ひら)けて/遠いラッパをきく。/花よ、空を突け/美しき力もて。〉
弟に召集令状が来た時「おめでとうございます」と両手をついたという石垣は書く。
〈聖戦も、神国も、鵜呑(うの)みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか〉〈もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます〉
敗戦20年後に、石垣は「弔詞」という詩を発表した。そこにこんな部分がある。
〈戦争の記憶が遠ざかるとき、/戦争がまた/私たちに近づく。/そうでなければ良い。〉
1945年8月15日、17歳の田辺聖子は日本の降伏に衝撃を受ける。一億玉砕を信じ、戦いに殉じる覚悟をしていたのだ。自伝エッセイ『欲しがりません勝つまでは』(光文社文庫・880円)にその日の日記が引用されている。
〈日本民族たるものは一人として瓦となり全(まつた)からんことを期するものはない。/然(しか)り、日本民族の栄誉にかけて三千年の伝統をそのままに玉と砕けんことをこいねがう〉
没後に見つかった戦時中の日記では、冒頭の〈日本民族〉が〈大和民族〉になっているが、それ以外は読みやすいよう句読点と文末を変えているくらいで、軍国主義に染まっていた自分をそのまま伝えようとしたことがわかる。
中原淳一が描く美少女に憧れ、吉屋信子の小説にときめく女の子が、同時に熱烈な軍国少女であるのは、ごく普通のことだった。田辺は同書の巻末で〈自分が過ごした時代と出来事について、きちんと書いて伝える責任があると思って書いた〉と語っている。
詩人の茨木のり子は女学校時代、軍事訓練で中隊長に選ばれた。分列行進を指揮し、号令をかける役割である。『茨木のり子全詩集 新版』(宮崎治編、岩波書店・9020円)所収のエッセイ「はたちが敗戦」で、当時をこう振り返っている。
〈私の馬鹿声は凛凛(りんりん)とひびくようになり、つんざくような裂帛(れっぱく)の気合が籠(こも)るようになった。そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている〉〈いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う〉
戦後の茨木の詩に〈内部からいつもくさつてくる桃、平和〉という一節がある(「内部からくさる桃」)。石垣の「弔詞」もそうだが、これは戦後社会に対する警告であると同時に、自分への戒めでもあった。詩「根府川の海」では、戦争のさなかにあった10代を〈無知で純粋で徒労だつた歳月〉と表現している。
危機が煽(あお)られ、愛国が叫ばれる時、無知と純粋は容易に結びつく。そのあやうさを、3人の元・軍国少女は、身にしみて知っていた。=朝日新聞2025年10月25日掲載