鴻巣友季子の文学潮流(第39回) 「推し」と宗教、そして町屋良平「IDOL」という傑作の誕生
2020年に宇佐美りんの『推し、燃ゆ』(河出文庫)が出たあたりから、アイドルまたは「推し」を題材にした小説がよく書かれ、読まれている。つい先日は、日本文学のなかでも特にアイドル文学を研究したいと言う海外の研究者の話も耳にした。
「推しが燃えた」の一行で始まる宇佐美りん『推し、燃ゆ』から、アイドル評論家中森明夫が超能力少女を主人公にした『キャッシー』(文藝春秋)、寺山修司をいまに甦らせる『TRY48』(新潮社)、「推し」を愛でる行為の本質に切りこむ古谷田奈月『フィールダー』(集英社文庫)、アイドル信者を操る物語の際どさを描いた朝井リョウ『イン・ザ・メガ・チャーチ』(日本経済新聞出版)、韓国の芸能界の光と影を切りとる桐野夏生『眠れぬおまえに遠くの夜を』(文藝春秋)……。桐野の新作では、遅咲きの俳優と、K-popアイドルとして瞬く間にスターダムに昇りつめたアイドルとの人生を交錯させて追想する。
かつて栄えていたフィクションのジャンルに恋愛(異性愛)至上主義というものがある。いわゆる不倫も含めた男女のラヴストーリーというものが、小説でも映画でもドラマでも、長らくあんなに盛りあがっていたのが嘘のようだ。読者の要請はいま余所へシフトし、異性愛の磁場に集まりがちだった熱量は四方に拡散している。自分にとってのIdolを推すというのも、情熱や信念の向かう先なのだと思う。
朝井リョウの『イン・ザ・メガ・チャーチ』(レビューはこちら)では、推し活と宗教のアナロジーが鮮烈に打ち出され、分析されていた。どちらもなにかを「信じる」ということが土台にあり、「物語」がその流布と浸透に深く関わっている。ひとはどうして特定の存在を「信じる」のか?
ハヤカワ新書から刊行された藤井修平『神を生み出す脳』を読みあわせてみよう。本書は「『人はなぜ神を信じるのか』という問い」をまず提起し、これを宗教認知学や進化生物学や考古学を通じて掘り下げつつ、「推し活は宗教か」という問いにも応答していく。「尊い」「布教」「聖地巡礼」など、「推し」用語にはだいぶ前から信仰の言葉が取り入れられているが、「推し活」という語自体はGoogleトレンドによると、2022年に急速に有名になったそうだ。
各宗教の神に共通するものはなにか? それは藤井によれば、「人間に似ているが、何らかの点で通常の人間とは異なる」ことだと言う。
たとえば、信号機とか店のドアなどが顔に見える「パレイドリア(Pareidolia)」という現象がある。あるいは、自然物や人工物に人間的な特徴を見いだす「擬人観」。パソコンがうまく動かないときに、機械の「機嫌が悪い」「言うことを聞け」などと思うのも擬人観の一種だ。藤井によると、これらの認知メカニズムは、そう考えた方が自然界の外敵や獲物を探しやすいために獲得されたものだと言う。これらが過剰反応を起こすと、その副産物としてパレイドリアが幽霊を生み、擬人観が神を生むことがあると解説している。
推し小説の一つのマイルストーンとなった宇佐美りん『推し、燃ゆ』を振り返ってみよう。物語の背景には、優秀な姉との比較、母と祖母の確執、海外に単身赴任中の父の無関心など、家庭の事情が顔を覗かせるが、本作はヒロインの生きづらさと孤独、その果てにある家族との訣別や和解や再生などという展開にはまったく向かわない。
ぐいぐいと綿密に書きこまれているのは、「推し」の言動の解釈だ。あかりは個人的にふれあうことのないアイドルの発言を片端から書き留め、映像を記録しており、「推しの見る世界を見」ようとする。自分を明け渡すという意味では、なにかの信仰に近い。また、信仰の見返りを求めないという点も共通するだろう。
主人公は世界中にちらばる徴(しるし)を組み合わせ、そこに推しとの因果関係、つまり推しの顔を見いだす。これもパレイドリアの心理的バリエーションなのかもしれない。
町屋良平がその名も『IDOL』(太田出版)という小説を刊行した。町屋の青春群像劇が大好物である私としてはうれしいかぎりだが、作者自身がボーイズグループに魅了されて書いたのだという。
舞台は70年後の日本。サバ番(サバイバルオーディション番組)に落ちたメンバーで結成された弱小ボーイズグループ「8koBrights(エコーブライツ)」の物語だ。この通称「エコブラ」に、アイドルが「過去の遺産」となった未来から、タイムトラベル免許を使ってやってきたアリスとキルトという兄弟が加わる。
リーダーのリュウ、サブリーダーで「アリキル」が未来人だと知ってしまうサトシ、リードボーカルのシンイチ、ボーカルとダンスが圧倒的に突出しているレン、社長のヤス、マネージャーのマサ。
アリキルがいる未来には、なかなかディストピアみがある。まず「夢」が軽犯罪にあたる。麻薬のようなもので、健康にも有害だというのだ。これはキム・リゲットのディストピア小説『グレイス・イヤー』(堀江里美訳、早川書房)の(未来の)原始社会にも取り入れられていた設定だ。家父長制の根強いこの土地の女性にとって、夢を見ることは最たる罪。夢を見て寝言を口にした女が「悪魔の言葉をしゃべった」として絞首刑に処されるさまは、魔女狩りそのものだった。少女たちは16歳になったら、女性の魅力という「穢れ」を払うために一定期間、森の奥へ追いやられる。
とはいえ、町屋良平の『IDOL』は多くのディストピア小説と違って、そういう社会にならないよう警告しているのではない。むしろデフォルメされた未来から見ることで、現代社会の歪みを照らしだしているのが面白い。未来からの意趣返しとも言えるだろう。たとえば、未来では過去に意識だけが送致される「禁固刑」のことを「ディストピア」とあだ名している。これは「過去の創作物で未来を軒並み『ディストピア』としてフィクションにされ好き勝手に面白がられ傷ついた未来人の返す皮肉のようなもの」なのだ。
また、未来の世界では、政治家というものはなくなり、AIが「謝罪や釈明」などを含めて大部分の仕事を代替しているが、生身体(きしんたい)の者は「政治助活動資格者」呼ばれている。人間のほうがアシストのようだ。いまの政界の惨状からするにそのほうが幾分ましなのではないかという批評とも感じられる。
「個性」なるものも余計な情動となった。歌などは「感情」を込めて歌うのは主流ではなく、意味を乗せること自体が聴衆の解釈を奪うことだと考えられている。ここなども文学に置き換えると――最近はカズオ・イシグロも自戒しているが――読者の感情を妄りに動かそうとしたり、登場人物の口を借りて自説を展開したりする書き手への戒めともとれなくもない。
時代背景や楽曲の構成をしっかり把握して歌うことが上手いとされる。そのためアリスは未来では上手い歌い手だったのだが、過去(私たちの現在)ではあまり評価されない。個性は恥辱の対象にすらなっており、個性が出てしまって吐くことすらある(個性恐怖症)。自分らしさや夢を押しつける現代の「野蛮さや暴力性」への、未来からの批評にもなっているだろう。さて、ここにもう一人の未来人の存在が感知される。未来人はある瞬間を迎えたとき、過去人の記憶から消えなくてはならないのだが……。
全体には、言うまでもなく町屋良平の文芸論、表現論としても読むことができる。とはいえ、もうラストはそういう抽象論は吹き飛んで、私はエコブラのハッコウ(同グループファンの通称)と一緒にステージを見つめて、涙していた。ひとことで言って、傑作。