浜辺や海の底に落ちている、ちっぽけなやきもののかけら。それが東西世界の壮大な流通を雄弁に語り出すのだから驚きだ。たった一片の肥前磁器に宿る近世交流史の軌跡がよみがえろうとしている。
「たとえば、九州から欧州向けに輸出されたチョコレートカップ。中南米のカカオ、作業に従事したアフリカ出身の奴隷も絡み、小さな破片に四つの大陸の交流や大量の情報が見えるのです」
このほど刊行の自著「海に眠る古伊万里」(雄山閣)に込めた思いを、野上建紀・長崎大教授はそう語る。日本磁器発祥の地、佐賀県有田町で文化財調査員を務めた経歴も持つ陶磁器研究のエキスパートだ。
17世紀、世界市場を席巻していた中国磁器が王朝交代の混乱で失速すると、その間隙(かんげき)を縫って台頭したのが有田など肥前地域(いまの佐賀・長崎両県)の染付(そめつけ)や色絵磁器。伊万里湾から積み出されたので古伊万里とも呼ばれる。
国内はもとより、徳川幕府に交易を許されたオランダ東インド会社の手で西洋諸国に運ばれ、王侯貴族にもてはやされた。
その旅路といえばインド洋からアフリカの喜望峰をへて欧州に至る西回りが普通だが、野上さんはその逆、広大な太平洋を横切ってアメリカ大陸を経由するルートがあったというのだ。しかも、いわゆる「鎖国」下で日本と接触を禁じられたはずのスペインが介在する、と。
きっかけはフィリピンのマニラで偶然発見した肥前磁器のかけらだった。
20年余り前、野上さんはマニラにいた。知人が待ち合わせに遅れ、遅い昼食の帰り道、いつもは閉まっている博物館の収蔵庫が開いていた。貸し出し用の品を選んでいたらしい。そこに交じっていたのが五つの染付のかけら。マニラ初の肥前磁器の発見だった。
「たまたまテーブルに広げられていたのです。運に恵まれました。当時の流通は従来のイメージ以上に複雑だったのですね」
日本との貿易を禁じられたスペインのアジア拠点に、なぜ肥前磁器が? 敵対していたオランダ船がもたらしたとは思えない。とすれば、中国の唐船によってマニラへ運ばれ、スペインが太平洋を運航していたガレオン船(大型帆船)で中南米を経由し、本国へと運ばれていったのではないか――。
マニラ、中米アカプルコ、メキシコ市、ハバナ……。各地で出土した肥前磁器のかけらを手がかりに、点と点をつないで線にする。そんな地道な作業から、公式記録には表れない商人のしたたかさ、政治や国際情勢に縛られない壮大な流通網が浮かびあがった。
ならば太平洋のどこかに、積み荷を満載したまま眠る交易船があるはずだ。それを発見できれば、生産地と消費地のつながりをさらに証明できるかもしれない。
沈没船はタイムカプセルであり、歴史情報の宝庫。近年は水中考古学の進展で、鎌倉時代の日本を襲ったモンゴル帝国の元寇(げんこう)船が長崎県鷹島沖で見つかり、注目を集める。
しかし、商品として肥前磁器を運んだ沈没船は、まだ見つかっていない。野上さん自ら世界中の海に潜り調査手法を模索してきたが、文字どおり大海原のなかで一本の針をさがすようなもの。「なかなか厳しい」けれど、希望は捨てていないという。
研究室の壁に貼り紙があった。「南米、アフリカ、五島、カルパン」とある。カルパンとはメキシコの村で、発掘を計画したもののコロナ禍で断念した地だ。目下、地元の五島列島で調査を続けているが、いつか染付皿や色絵壺(つぼ)が確認されたアフリカのケニアへも出かけたい。「受験生が目標を壁に貼るみたいなもの。初心を忘れないようにね」
世界へ雄飛した近世肥前磁器の軌跡をたどる旅は続く。(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2026年7月8日掲載