ISBN: 9784560026670
発売⽇: 2026/06/25
サイズ: 18.8×2.8cm/386p
「私の女の実」 [著]ハン・ガン
ひとつの人生に細かく走る亀裂を照らし出す物語の数々、と本書はまとめることができるかもしれない。ただし、そのように形容したところで、驚嘆すべき解像度で描かれる物語群に対しては無力だとすら思える。
繰り返し浮上するのは、日常に潜む暴力と、それを語る行為をめぐる問いである。平凡なはずの夫婦の生活を舞台とする「私の女の実」の冒頭に出てくる、牡丹(ぼたん)の花びらが「切断された舌のよう」だというくだりから、その問いはすでに動き出している。妻の体に生じた原因不明の痣(あざ)をきっかけに、夫は彼女の思わぬ変化を目の当たりにする。一方で、なぜその変化が生じたのか、妻は語れないままだ。
ともに何年も暮らす者が、他者としての思わぬ姿をあらわにする。そうして、その何年ものあいだずっと、日常のなかにひびが入り続けていたことが明らかになる。
そのひびは、社会が抱え込んだ低強度の暴力だともいえる。社会的地位の高低や、美醜の感覚、ジェンダー的役割など、いたるところで誰かに重荷という暴力がのしかかっているのなら、そこから逃れることは可能なのか。逃れた先に居場所は見つかるのか。そうした問いが、気がつけば登場人物たちを遠くに運んでいく。丁寧に、繊細に語られているがゆえに、その物語に宿る速度と強度は驚異的だ。
「ある日彼は」などの、主人公をあくまで外から観察するような描写は、次第に主人公の内面に入り込んでいく。しかし、読者は、そして作家は、他者の内面を、どこまで知りうるのだろうか。完全には知りえない他者同士が、たとえば「白い花」における船や済州島といった場所に居合わせる、そこで人生のひびが重なり合うとき、私と他者とはいかなる関係を結びうるのか。ハン・ガンの物語は言葉にできるかぎりの無数の問いを投げかけつつ、無数の人生を忘却の暗がりから拾い上げようとしている。
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Han Kang 1970年、韓国生まれ。作家。『菜食主義者』で国際ブッカー賞、『別れを告げない』でメディシス賞(外国小説部門)、2024年にノーベル文学賞。本書は1996~2000年に発表した中・短編を集めたコレクション第1巻。
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斎藤真理子訳