30代半ばに書いた本です。女子中高生が援助交際をしたり、ブルセラショップで制服や下着を売ったりしている当時の現象を、個別の道徳意識や成育環境の問題として考えるのではなく、社会システムの問題として分析しました。
この問題に関心を持ったのは1992年に女子高校生からカミングアウトされたからです。最初は特殊な話かと思いましたが、いざ渋谷で声をかけ、ツテをたどって調査を始めると、そうじゃないことにすぐ気づきました。
実はショックでした。女の子の売春に対してじゃない。援交の舞台の一つだった渋谷が自分がよく知っていると思っていた街だったからです。街の主観的風景が一変した僕は、フィールドワークを本格化させました。
援交は僕の活動で注目を浴びたけど、結局は彼女たちを「道徳の崩壊」の象徴として批判する凡庸で愚かな言説があふれた。新聞の論調も、強者に搾取される弱者=女の子という従来の「社会語り」の図式にあてはめるだけ。実際には「転落」や「不良」じゃなかったから、僕は責任を感じました。
デタラメな図式の横行は、中流家庭の「フツーの子」という現実を見ると、不安になるからです。
不安の背景は何か。一つは、その前の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と「連続幼女誘拐殺人事件」が、同居家族に気づかれずに実行されたように「一つ屋根の下のアカの他人」という現実が直感されていた。もう一つは、論壇的ないし新聞の論説的な道徳然とした言説が、現実をかすりもして来なかったことが暴露された。この本は、当事者が生きる時空形式とともに社会的な時空形式の変化を理論的に大きく扱っています。
「道徳崩壊の象徴」ではなかった援交
本でも書いたように、90年代の日本では「島宇宙化」が進みます。不透明な小集団の内輪にしか反応しなくなって世間が消えた。学校どころかクラスですら「仲間」になれず、互いにノリを合わせるだけのせいぜい数人の薄っぺらな小集団が残った。経済成長を支えた会社を含めて社会の至る所がそうなりました。戦後社会の分岐点です。
「道徳」は、内的な正しさに根ざした倫理とは違い「世間」のまなざしによって律せられる作法です。でも「世間」のまなざしが不透明になった。援交少女はそうした現実に適応した「普通」の子。だから「ブルセラ女子高生は凡庸な日本人だ」と書いたのです。
実は、僕自身が彼女たちに実存的に大いに共感していました。「世間」の存在を前提にした愚かな言説があふれる「うそ社会」を前に、「ここではないどこか」に憧れるオウム(真理教)信者の作法がある一方で、ゲーム的に「ここを読み替える」援交少女の作法がある。暗さを押しつける前者と違い、彼女たちは「うそ社会」を軽やかに飛び越えていると感じました。「うそ社会」に適応するといっても、染まるのではなく、なりすます。内面の夢や希望は捨てない。断念と夢を併せ持つ明るい存在。僕は自分を重ねて共感したのです。
けれど、彼女たちが軽やかで自由だったのは、援交がピークだった96年まで。担い手は同世代のリーダー層だったのが、その後はフォロワー層に。援交は「かっこ悪く」なり、取材してもかつてのような「語り」は失われました。
2000年代に入ると社会的文脈がさらに変わります。携帯所有率の上昇や出会い系の普及で、援交は「薄く広く」日常化します。携帯料金や旅行などの遊興費が払えないときの消費者金融代わりです。その延長上で社会の貧困化が進んで、生活のための文字どおりの「お財布」になりました。かつてあった女の子たちの全能感や、それを可能にした都市の共同性=微熱感は、見る影もなくなった。
かわりに日本社会は、共同性の崩壊、つまり誰が「仲間」か分からない不安を、逸脱的な他者に集団炎上して「インチキ仲間」を捏造(ねつぞう)する営みで埋めるようになりました。それが今の、デタラメ放題の「美しい日本」でしょう。(聞き手 高久潤)=朝日新聞2017年12月27日掲載