私は時々“初期化”される感覚を抱く。それが起きるのは決まって、昼下がり、ソファでのうたた寝から目覚めた時だ。私は白紙のような幼子に戻っている。大人になった長い夢を見ていただけで、やはりこれが私の原型なんだな、と妙に納得する。
今までの自分が消えて空白化する。恐ろしいことのようで、実は人間の原初的願望なのかもしれない。『某(ぼう)』を読んでいるとそう思えてきた。
ある人物が忽然(こつぜん)と病院に現れる。それ以前の記憶がまったくない。自らの名前も性別も年もわからず、ひとまず、「丹羽(にわ)ハルカ」という高校二年生の女性に擬態することになった。感情がほとんどない人物である。
主人公は男女何人もの人物に「変化」する。同じく性別や身元を替えながら何百年も生きる『オーランドー』というヴァージニア・ウルフの小説を思いだしたが、『某』は、わずか数カ月から十数年で次の人物に。やがて、自分と同族の「誰でもない者」たちに出会っていく。
本作には幾つもの大きな、根源的な問いかけがある。「私」とは何か? 個人とは、人間とは? 共感、愛、家族、老い、そして死とは何か? 主人公は「性格や感情は、いったいどこからきているのかな」と言う。「外界からの刺激で、どんどんその場で、(その者は)できあがってきたのか」と。そういえば、村田沙耶香の「孵化(ふか)」(『生命式』収録)にも、その場の要求に応じて人格がころころ入れ替わる人物が出てきたなあ。自己が転変したり他人と融合したりして、個人の境界がゆらぐ小説が増えている。
『某』の主人公は章ごとに何かを得て、何かに近づき、最後に人を愛することであるものを得る。人を人たらしめるのは他者を思う心だと、本作は言っているんじゃないか?
「これ、川上弘美の小説で一番好きかも!」と騒いだら、「あなた、それ毎回言ってるよ」と言われた。一作ごとに更新される川上文学なのだ。
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幻冬舎・1760円=初刷1万8千部。9月刊行。編集者は「不思議な世界観や転生が、読者の人生の様々な節目と重ねて感じられ、共感を得ているのではないか」と見る。=朝日新聞2019年11月9日掲載