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藤巻亮太の旅是好日 縦糸をピンと張って生きることを教えてくれた、私の一冊

文・写真:藤巻亮太

 先日、朝日新聞の企画「MEET YOUR BOOK」で人生を変えた一冊を選ぶことを求められ、私はプラトンの『国家』(訳:藤沢令夫、岩波文庫)を躊躇なく選んだ。そこでは、「勢いで越えた20代からソロになった30代。この本に出会った。相対的に思われた正義が何度も揺さぶられ、あるべき場所へ収束していった。考え抜く大切さを知った一冊」(7月11日付朝日新聞全国版)と限られた文字数のなかでコメントをさせてもらった。

 そんな流れで今回、この『国家』についてもう少し書いてみたい。ただ、事前にお断りしておきたいのは、文庫サイズで分厚い上下巻の同作品を、この短いコラムのなかで書けることには限界があるということ。加えて、私自身はプラトンの専門家でもなんでもないから、あくまでも私見に過ぎないことをご了承いただきたい。

 この本は書店で気ままに手に取ったというわけではなく、友人がこの本の存在を教えてくれて興味を持った。本を手に取った最初の感想は、シンプルなタイトルでありながら、骨太で芯を感じさせ、同時にその厚さに正直なところひるんだ。ただ、わりと時間に余裕がある時期だったので読むことに決めたのだ。ページを開く前には漠然とだが、『国家』というタイトルである以上、国とはどうあるべきかを追求するものだと思ったが、実際は一人の人間が国家という共同体のなかで正しく生きるとはどういうことなのか、それを正義という言葉を軸に展開していく内容だった。

『国家』に付きまとう「正義」の問題

 古代ギリシャに生きたプラトンはソクラテスの弟子であり、そして彼の作品のほとんどにはソクラテスが登場し、その口を借りて物語が編まれていく。そしてプラトンの作品の主要なものは対話のスタイルで書かれている。

 『国家』の第一巻のさわりを少しだけ紹介したい。

 まず冒頭、ソクラテスがお祭り見物の帰りに半ば無理やりにケパロスという老人の家に連れてこられたところから始まる。ケパロスは老いることはそれほど悪いものではない、とソクラテスに告白をする。そして、若い時分に惑わされた色々な欲望からも一定の距離をとれるようになり、人に対して返さねばならないものや借金もなく、不正はしないで正直さでもって蓄財してきた財産があり、それによって余裕のある正しい生活の晩年を過ごせてありがたいものだ、とそんなことを言う。するとソクラテスは次のように返すのだ。

「たいへん立派なお言葉とうかがいました、ケパロス」とぼくは言った、「しかし、ちょうどお話に出てきた(正しさ)(正義)ということですが、はたしてそれは、ほんとうのことを言う正直な態度のことであり、誰かから何かをあずかった場合にそれを返すことであると、まったく無条件に言い切ってよいものでしょうか。それとも、ほかならぬそういう態度でも、時と場合によっては、正しかったり正しくなかったりすることもありうる、と言わねばならないでしょうか・・・・・・。(第一巻331C)

 普通に想像すると、もはや自らの歩みに満足しており、正直であることが正義にかなうと信じる老人に対してあえて疑問を呈するのは、どこか空気が読めない感じがする。だが、プラトンが描くソクラテスはそんなことを気にしない。この議論の続きはケパロスではなく、その息子でお人好しな感じのポレマルコスが引き取る。そこからソクラテスとポレマルコスの対話が続く。ある詩人の言葉を引き、ポレマルコスは自分が思うところの正義についての定義「それぞれの人に借りているものを返すのが、正しいことだ」(331E)とし、そこからソクラテスからの質問が論理的に重ねられていくのだが、結果としてポレマルコスの対話で行き着いたのは不思議なことに、正義の意味は盗人と同義ということになってしまうのだ。ソクラテスは少し困惑をみせて、そしてポレマルコスはもはや自分で何を言っているのかわからなくなる。

「してみると、どうやら正義の人の正体は、一種の盗人であると判明したようだね・・・・・・」
「冗談ではありませんよ!」とポレマルコスは言った、「しかし私にはもう、自分が何を言っていたのか、さっぱりわからなくなってしまいました。ただし一つだけ、いまでも確かだと思うのは、(正義)とは友を利し敵を害することである、ということです」(334AB)

 ここから、トラシュマコスなる人物が登場してくる。ソクラテスとポレマルコスの対話にイライラしてついに我慢できず、キレ気味に突如参戦してくる。

トラシュマコスは、満座にとどろく大声でどなった、「何というたわけたお喋りに、さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ、ソクラテス?ごもっとも、ごもっともと譲り合いながら、お互いに人の好いところを見せ合っているそのざまは、何ごとですか?(336C)

 トラシュマコスはソクラテスの質問に質問を重ねていくスタイルに腹を立てて、我こそは正義とは何かを知っているとばかりに言い放つ。

では聞くがよい。私は主張する、(正しいこと)とは、強い者の利益にほかならないと。(338C)

 ここからトラシュマコスが喧嘩腰でソクラテスに対話を挑むシーンとなる。だが、このトラシュマコスは対話の途中で旗色が悪くなると、ソクラテスをペテン師呼ばわりして、感情的になりつつ必死で防戦するが次第に追い詰められていく。トラシュマコスが退場するとまた別の人物が出てくる。そして、個人にとっての正義とは何かを考えていくうちに、個人から国家へと思考の枠組みを広げて対話が続けられ、やがてその考察はイデアの世界や次元にまで深まって展開してゆく。ここからの展開があまりにも凄まじい。人間の想像力、知力の底知れぬ深さに打ちのめされた。まさに私にとっては、人生を変えた一冊となった。

子供の頃の「正義」と成長して感じた「正義」

 さてここで少し自分の話をしたい。小さいころよく観た映画は、今思えば勧善懲悪のものが多く、最後には正義が勝つことでどこかカタルシスを感じて胸がスカッとしたものだ。ただ、少し成長して思春期くらいになると、歴史は勝者がつくり、勝った側こそが正義という価値観にぶつかり、そこからいろいろと疑問を持つようになった。それに並行して単純明快なものよりも、より入り組んだ内容のドラマや映画を好むようにもなった。そうなると、それぞれに立場があり、立場が異なれば正義も異なり、結局のところ正義とはどこか相対的なものなのだと当時の自分の価値観の中には深く刻まれることになった。

 そして大人になる頃には「正義とは何だろうか」などと議論することはなくなり、むしろそうした話をすることがどこかアンタッチャブルにも感じた。正義という言葉ほど強くはなくとも、何が正しいかなどはお互いの立場をよく理解していなければ口にしにくくて、扱いにくいものとなっていた。それから時が過ぎて20代を終え、30代になりある程度過ぎてから『国家』と出会った。

 立場の違いにより相対的に異なるのが正義とするのは容易だが、この本を読み込むうちに正義とは人間にとってもっと強く、そして然るべきものであり、人生の軸に本来なるべきものなのだと考えるようになった。ただ、それが何であるかはそう簡単には正体を見せてくれないのだ。縦糸と横糸でつくられた織物を想像してほしい。人の目にみえるのはカラフルな横糸だけだ。しかし目にはみえない縦糸がピンと張っていなければ美しい織物は完成しないのだ。

 人が生きていくことも同じで、表をきれいに取り繕うと思っても、この目に見えない縦糸がブレていたら決してそれは完成しないように思う。縦糸をまっすぐ張る、そのヒントがこの本には散りばめられているのだと感じている。