チャールズ・ディケンズはイギリスの作家であり、1812~1870年の生涯で『クリスマス・キャロル』『オリヴァー・ツイスト』『大いなる遺産』など多くの名作を世に送り出してきた。ディケンズは、社会の中における弱者や虐げられた人たちに対する思いを持って作品を書いている。私は友人に勧められて『二都物語』を読んだ。
あまり深く考えずに読み始めたのだが、ページが進むにつれて彼が描きだす200年も前のフランス革命下、その不穏な空気にいつの間にか包まれていくようだった。脳裏に浮かぶのは冷たい泥の上を走る馬車や、街灯もない夜の濃く重たい闇だ。人々は汚れ、飢え、怒りと不信に満ちている。思いつく限りのあらゆる不衛生にまみれ、そこからくる非寛容のストレスのためか、少なからぬ人々が短命で終わっただろうし、革命のために流されたあまりに多くの血のせいで平均寿命自体が押し下げられもしただろう。革命下では人の命はあまりにも安易に消えてしまった。
物語の舞台はフランスと、ドーバー海峡をはさんだイギリスがメインだ。暴政に嫌気がさして渡英した亡命貴族のチャールズ・ダーネイ、実力はありながらも虐げられ、どこか影を背負った弁護士シドニー・カートン、そして二人は同じ女性に恋をする。無実の罪で長年幽閉されていたマネット医師の美しい娘ルーシーだ。そんな彼らをフランス革命という容赦のない大きな流れが飲み込んでゆく。
この小説で所々、私の心を波立たせたのは人間の残虐性だ。フランス革命は封建的な身分制や領主制を一掃して、資本主義が確立する機会となったと一般的には理解されている。それだけを読めば平和裏に物事が運んだように見えるが、『二都物語』は革命前後の人間模様が平和とはまったく無縁の様相で五感に訴えてくる。そこにこそ文学の迫力をみた。
人は人にどこまで残酷になれるのか
革命の背景には圧倒的な権力で市民を虐げてきた貴族たちと、その不条理を突きつけられ辛苦を味わい続けた、あまりに貧しい市民という構図がある。それが革命の導火線に火をつけたのだ。そして革命がなされて貴族と市民の立場が逆転した後も、その火は鎮火するどころか、復讐という黒い炎となり、さらに見境なく人々の命を焼き尽くしていったのだ。物語の後半では、革命直後の市民が、良心的だった貴族に対してさえ正義の名のもとに報復していくという醜い人間の残虐性も描かれている。そこには終始正義や平和の香りなどしない、ただ暴力の匂いが立ち込めているだけだ。
これまで革命という語感からは多くの困難を克服して成し遂げられた、ある種の気高さや美徳さえ感じていたが、この物語を読み終え多くの犠牲者たちに想いを馳せると、革命はそんな生易しいものとは到底思えない。人間はどこまでも愚かで残虐な側面があることを考えさせられた。しかし、そのような人間の闇の部分だけを扱うためにこの物語は書かれたのではない。どのような時代にあっても自身の正しさを信じ、孤独のなかにあっても正義のために生きる高潔な人間もいるのだ。そのような人間を突き動かす力が存在することも『二都物語』は語りかけて希望を示してくれる。
正直『二都物語』は文体も古めかしく、しかも長い上に様々なエピソードが出てくるのでなかなか内容を整理するのが大変で、物語のリズムに慣れるまではかなり骨の折れる読書だった。しかし終盤に差し掛かり、物語がそれまでの伏線を一気に回収し始めてからは、もうどうにも読書が止まらなかった。そして、人間がもつ闇も光も描かれたこの作品に心の底から圧倒された。
革命へ向かう時代の流れは誰にも抗えぬ大きな力であったであろう。しかしどんな激流の中でも己の為すべきことを為すために行動する人がいる。そのように人を無心に突き動かす力があることも事実だと感じた。コロナ禍の大きな流れをどう生きたら良いのか、私自身も深く考えさせられた一冊である。