『暗黒の啓蒙(けいもう)書』。この不穏なタイトルを冠した文章は英国の哲学者ニック・ランドが二〇一二年にブログに連投したものだ。書籍化されているのは日本だけということからも「新反動主義」と呼ばれる彼の思想が注目されていることがわかる。ランドは近代社会を特徴づける啓蒙という大義、そしてそれを実現する民主主義に反旗を翻す。
選挙での投票から#MeTooなどのハッシュタグデモまでが含まれるだろう、民主主義的な「声」の政治に付き合うのをやめて、むしろそこからの「出口」を本書は目指す。著者は近代的な理性の光を道標にした啓蒙からの脱出をまさに啓蒙する。「政治的正しさ」や「コンプライアンス」といった現代的な啓蒙に息苦しさを感じる者にとってこの扇動は魅力的だろう。
ランドは二者択一を迫る。政治か経済か、と。「声」の政治からの脱出が意味するのは経済的な自由至上主義であり、コロナ禍を経験しているわれわれはこの問題を移動制限と補償による社会の保護か不謹慎な経済的自由かという二者択一として具体的に理解できるだろう。
政治と経済結ぶ
しかし真に考えるべきはこの二者択一からの「出口」なのではないだろうか。たとえば東浩紀『観光客の哲学』はグローバル化した観光という経済的な現象を哲学的に考えることで、そこに政治的な可能性を見出(みいだ)す。経済と政治を対立させるのではなく、その二層構造をどのように結び直すかということが、一見軽薄な観光という経済行為が政治的な意識を生み出す回路を描くことで思考されている。
ランドは露悪的に、東は飄々(ひょうひょう)と、「真面目」な政治という領域を相対化し不謹慎な経済的欲望を肯定して見せる。しかし近代的な啓蒙に否を突きつける新反動主義者達(たち)のブログを紹介するランドは、ある意味でこの不謹慎さに距離を取っている。彼をさらに紹介する邦訳書、そしてこの記事も紹介という一見中立的な態度に警戒しなければならない。「声」に対する「出口」にせよ、現代の啓蒙の場となるリベラルなメディアや大学の宗教性を「大聖堂」と呼ぶ皮肉にせよ、哲学的な概念というよりネットスラングを意味する「ミーム」に近いものだ。ミームはつねに半笑いで拡散される。
大地の中で思考
ランドと同様にインターネットを活動の場として積極的に用いてきた東が、ある種の「ネット民主主義」の可能性を描いた『一般意志2・0』(講談社文庫・759円)以降「ゲンロンカフェ」という場を作り『観光客の哲学』で実空間での移動の重要性を説くに至っているのは象徴的だ。新反動主義者の言う「出口」の実空間での実装は例えば海上に建造される人工都市というおよそ非現実的なものだが、東は一方通行の出口でなく現実的な行き帰りそのものに可能性を見出している。
ランドも影響を受けているドゥルーズ&ガタリは『哲学とは何か』で近代哲学は資本主義を己の環境としていると述べている。古代ギリシアの民主主義的な対話とともに始まった哲学は、近代以降その経済的な地盤を無視できなくなる。同時に、本書では哲学の地域性をマッピングすることが試みられている。思考は大地と領土の関係において成立する、つまり安易に大地からの脱出を夢想するのでなく、動き続ける大地のただなかでいかに領土を形作るかということがものを考えることなのだと本書は主張する。
グローバルな資本主義とナショナリズムへの回帰が並走する状況のなかで、いかにして新たな領土のありかた、そして領土どうしの関係を考えることができるのか。出口か観光か。あるいは、この二者択一にすら収まらないものがあるのだろうか。=朝日新聞2020年9月5日掲載