「写真集は、何でできている?」
2021年4月に公開されたドキュメンタリー映画「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」。その冒頭は、町口覚さんのシーンから始まる。王子製紙が所有する北海道の冬の森で、木の伐採に立ち会う。
「写真集って、何でできてるか知ってる?」。きっかけは、森山さんの事務所を訪ねてきた監督の岩間玄さんに、町口さんが尋ねた一言だった。
「グラフィックデザイナーは、紙がなくなると何もできない」と町口さん。ドキュメンタリー映画は、森山さんのデビュー作となる1968年の写真集『にっぽん劇場写真帖』を辿りながら、新たな決定版を作り、同時に森で育った木が紙になるまでの製紙のプロセスも浮かび上がる構成になっている。
映画には、茹でられた丸太からホカホカの湯気が上がるシーンもある。
「丸太を入れて、芋の煮ころがしみたいに茹でて、ある程度皮を剥いちゃう。あの機械(ドラムバーカー)を持っているのは、日本では王子製紙の苫小牧工場だけなんですよ。まず木を育ててね、間伐して、伐採して、パルプにして、製紙して、やっと紙になる。そこで初めて、紙に印刷して製本して、本になるんです」
日本を代表する写真家たちとの仕事
町口さんは、日本を代表する写真家たちと、様々な写真集を手がけてきた。2018年末から刊行された森山大道さんの「森山大道写真集成1〜4」(月曜社)は、東京工芸大学の写大ギャラリーに所蔵された、1960〜1982年に森山さんが撮影した初期の代表作品930点をアーカイブする写真集(森山大道写真集成5)を作るために作られたという。
「大学側からデータベースを作り終えたと聞いて、写真集にしないといけないねと。その予習として1968年の『にっぽん劇場写真帖』、72年の『狩人』『写真よさようなら』、82年の『光と影』という名作写真集たちを、決定版として進めていこうと」
全ての写真について何年にどこで撮ったのかを調べあげたうえで、4冊の決定版に加え、全所蔵作品930点のプリントを一冊に収録した5冊目を作った。「832ページあるけれども、この造本仕様で海外では作れない。こういう写真集をパリに持っていくと、大ウケするんですよね」と説明する。
荒木経惟さんの『道』(河出書房新社)は、編集者からの声かけでデザインを担当。町口さんにとっては、「すごく好きな一冊」だという。
東京・千駄木にあるヴィンテージショップ「ウルフズヘッド」の25周年を記念して制作した写真集『WOLF’S』は、当時25歳だった写真家の奥山由之さんが撮影した。
2020年6月に発売された蜷川実花さんの『東京 TOKYO』(河出書房新社)には、後半に新型コロナウイルスの影響を受ける東京や、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事として見た風景が記録されている。
父の仕事場で眺めた本棚
グラフィックデザイナーの父を持つ町口さん。小学校が合わず、青山にある父の仕事場に一緒に行くこともあったという。
「当時は、写真家や編集者がやり合っている打ち合わせ部屋があったんだけど、それとは別に本棚がズラーっと並んだ部屋があって、そこに閉じ込もっていたんですよ。写真集だけじゃないですけど、自分で勝手に見ていたんです。『なんでこんなデカい本があるんだ』と。いろいろ遊んで本に落書きしてましたね」
絵が上手かった町口さんは、デザインを学ぶために神奈川県立神奈川工業高等学校デザイン科に進学。横浜にあった実家から歩いて通える距離だった。
「当時はスパルタで、1年生のときは朝から夕方までずっとデッサンしてた。2年生になると、平面か立体、つまりグラフィックかプロダクトかで分けられるんです。僕は平面を選んで、それからこっちの道に」
教師は、美大への進学をすすめなかった。3年間、集中的に技術を学んだから、すぐに社会に出て仕事をしたほうがいいという方針だった。こうして町口さんは高校卒業後の1989年、デザイン会社に就職した。
あるアートディレクターとの出会い
就職先のデザイン会社の男性が、町口さんの人生を変える。夕方になるとやってきて、缶ビールを飲みながら作業するおじさんが気になり、「手伝わせてもらってもいいですか?」と声をかけたのだ。
「おお。俺、金ねぇから金はあげらんねぇぞ」
夕方から、アートディレクター浅川演彦さんの手伝いをする日々が始まった。「これが僕の分岐点ですね。撮影に連れていかれたり、展覧会に連れていかれたり。カメラマンにイラストレーター、編集者、ライターと、あらゆる人たちとつながりがあって。『これ、右腕の町口』って、いろんな人に紹介してくれたの。勉強させてもらいました」
「浅川さんは人間力が全然違った。(写真家の)石元泰博さんから(イラストレーターの)宇野亜喜良さんから、みんなが声をかけてくれる。こういう生き方もあるんだ、と知りましたね」
地元・横浜で立ち上げたミニコミ誌
浅川さんのもとで3年を過ごした後、転職の誘いがあり、広告の仕事も手がけたが、全く性に合わなかったという。仕事のかたわら、地元の横浜でミニコミ誌を立ち上げる。
「同世代の若者たちを20〜30人集めて、月2万円で『何か書かしてやるから』って。飲み屋とかライブハウスとかを回って1冊200円で売ってもらいましたね」
横浜の日劇が舞台になった映画「私立探偵 濱マイク」(1993年)では、プロデューサーに直接電話でアポを取り付け、タイアップを申し出た。念願のオフセット印刷の予算を提供してもらい、映画とのコラボ特集を企画。パンフレットの隣にミニコミ誌を並べて販売すると、2万部のヒットとなった。
「会社の仕事と二刀流でやっていたので大変でしたけど、若かったから何でもできた。映画の監督とも仲良くなって、俳優さんも来て、連れ回されるわけです。あらためて『俺、こっちだよな』って確信しました」
こうして、町口さんは独立した。23歳のときだった。
初めて作ったオリジナル写真集
「この頃に出会った面白い人たちは、写真を撮っている人が多かった」。町口さんは、その写真家たちの写真集を作ることにした。
「自分でお金を出して、95年に『40+1 PHOTOGRAPHERS PIN-UP』を作ったんです。タイトルの通り、40人の写真が入っているんですよ。+1は僕なんです」
「当時、同世代の写真家300人ぐらいに会って、写真を見せてもらって。乱暴にいえば、“自分探しの旅系”とか“女性の裸を撮ってる系”とか意外と種類は多くなくて。その結果、40人を選出して作ったんです」
写真のフレームとなる木枠はすべて手作り。ネジを締めるためのオリジナルのドライバーも作った。限定500部、定価1万円。発売後は、自らリュックを背負って書店に営業した。
写真家・佐内正史さんのデビュー作
写真家の佐内正史さんと出会ったのは、1995年のことだった。写真集を作った仲間の紹介で、仕事場で写真を見せてもらい、魅了された。
東京の出版社は誰も相手にしてくれなかったが、どうしても1997年に出版したかった。別件で仕事をしていた京都の印刷所に、「京都にいないかな?」と尋ねると「ひとりいまっせ」と返ってきた。それが、京都で青幻舎という出版社を立ち上げたばかりの安田英樹さんだ。
「僕の仕事場に来てくれたんですよ。こういう写真集を作りたいんだけど、見てくれないですか? といって写真とカラーコピーのマケット(模型)を見せたんです。その場で、俺の目をギロっと睨んで『勝負しまっか』と。『勝負ってなんですか?』って聞くと『出版や!』と。その場で決めてくれたんですよ」
97年4月、佐内さんのデビュー写真集『生きている』(青幻舎)が発売された。最初は全然売れなかったが、98年1月、雑誌「AERA」新年号の「裏原宿」特集で紹介され、一気に火がついた。
「まだインターネットは普及してなくて、1冊の雑誌が火をつける時代だったんだよね」と町口さんは懐かしんだ。
工場で職人から学んだ印刷技術
町口さんが、印刷技術を学んだのは、印刷立会いの現場だ。最初は、工場の職人には「デザイナーさん」と呼ばれ、名前も呼んでもらえなかったという。
「忘れもしないけど、職人のトップの人が、昼休みに黄色のチップを僕の前にバラバラと置いたんですよ。黄色のY版は大事なんですけど。『この黄色、全部彩度と明度の順に並べてみろ』って。こっちは得意だから、綺麗に並べたんですよ。そしたら『お前名前なんだっけ?』って(笑)」
その後は、いろんな現場で「町口だよ」と紹介してくれたという。町口さんは、デザイナーとしては「深い知識はなくていいから、広く浅く、現場のプロと話ができること」が大事だと話す。
「印刷は、製本も紙も、ものすごく細分化されているから、僕の立場としては、広く浅く知っておかないと会話が成り立たないんですよ。『ここ、こうすることできますよね?』とか、そのジャッジができないと人としてバカにされるよね」
デザイナーがレーベルを立ち上げた理由
町口さんは2005年、デザイナーでありながら、自らの写真集レーベル「M」を立ち上げた。背景には、右肩下がりが続く出版不況があった。町口さんがまとめた造本仕様書が、次第に通らなくなったのだ。
「2000年代初頭までは、まだ版元にもお金をかけていい本を作ろうっていう気骨があった。でも徐々に『この紙は使えません』『上製本も無理です』って。このままいくと最初にイメージした造本設計で写真集が作れなくなると思って、レーベルを立ち上げたんですよ」
最初に手がけたのは、写真家の大森克己さんと野村佐紀子さんの作品。ふたりとも、95年の『40+1 PHOTOGRAPHERS PIN-UP』以来、10年ぶりの共同作業だった。
世界最大の写真フェア「パリ・フォト」へ
そして2008年には、海外に進出する。世界最大規模の写真フェア「パリ・フォト」の「日本特集」のキュレーションを任された、友人で写真批評家の竹内万里子さんから相談があったのだ。
「彼女は、『日本の写真文化は、写真だけを紹介してもダメ。写真集も含めて紹介したい』と。パリ・フォトのメインビジュアルでもデザインするのかと思ったら、版元として来ないかと。レーベルだし、好きなことやってるだけだからと言ったら、『それがいいんじゃない』って(笑)」
重たい写真集の海外輸送、初めての関税。初めてづくしのなか、町口さんはパリ・フォトに初出展を果たす。
「超アウェーだろうなと思ったんですよ。フランス語も英語も話せないのに、ブースを出して。でも、ものすごく売れたんだよね。『この紙は何だ?』と聞かれたり、写真集の匂いをかいだり、もう文化が違ったんですよ。なんだこれ。こっちがホームじゃんって(笑)」
世界の出版社、クリエイターとの協業
パリ・フォトでの出会いをきっかけに、海外の出版社やクリエイターの写真集を手がける機会も増えた。2013年に発表された石内都さんの写真集『Frida by Ishiuchi』(RM)も、現地で仲良くなったメキシコ人からの依頼だった。
「RMは、メキシコとスペインにあるラモーンって友達がやってる出版社なんです。ラモーンが僕のレーベルのファンで、パリ・フォトに通って写真集をたくさん買ってくれて、『いつかマッチと仕事がしたい』って言ってくれてたんだよね」
「あるとき、『今年はマッチとできる仕事を持ってきた!』って言うから、『メキシコ人か!?』って聞いたら、『ミヤコだ!』と」
「ラモーンが、石内さんが撮った『ひろしま』を見て、『自分の国のミューズのフリーダ・カーロの遺品を、ミヤコに撮ってもらったんだ』と。フリーダ・カーロ美術館を巻き込んで相当いい仕事をしたんですよ」
「石内さんはフリーダを撮って世界に行けた。『ひろしま』のアプローチを、世界のアイコンでやる。その後『ひろしま』はすごいって世界に広まったんだよね」
日本の文学と写真で挑む
パリ・フォト出展を重ねた町口さんは、2014年から、写真集だけでなく、日本の文学作品にも挑戦する。
「パリ・フォトだと、森山大道とか荒木経惟とかは知ってる。文学になると、村上春樹や三島由紀夫は知ってる。でも太宰治は誰も知らないんだよね」
「近現代には、僕にとってかけがえのない小説家がいる。それで、日本の写真と近現代文学を1冊の本のなかで拮抗させる写真集を作り始めたの。それがパリで大ウケしたんだよね」
「太宰の『ヴィヨンの妻』を翻訳してもらって、もちろん文章は一字一句載せるんだけど、著作権は切れてるから、僕がある部分の言葉を強調したり、写真を挟んだり好き勝手にやっているんです」
さらに、写真集の小口を削って、ページをめくる触感を工夫している。
「パリジェンヌたちは写真集をものすごく美しく触って見るわけ。その親指で、感じてほしいなと思ったの。本は五感で感じないとね」
再びパリへ。唯一無二の写真集のために
パリ・フォトには、毎年1トンを超える写真集を持っていく。町口さんのレーベルの作品は、7割ほどが海外で販売されている。
「造本家なのに、関税とか輸送とかすげえ詳しくなっちゃった(笑)。でも自分が作った写真集を、世界に伝えるためにやってることだからね」
「当時22、23の僕は、写真集を作るところから始まって、大風呂敷を広げて、やりつづける覚悟を決めて取り組んでいった。お金がなくなったりボロボロになったりしたけど、何とか出会いがつながって、世界に向けてやってきた」
「今回のコロちゃん(新型コロナウイルス)騒動で世界の写真は確実に飛躍する。やっぱ、その中心に立っていたいよね。そこに行くためには、写真集を作り続けないといけない」
唯一無二の写真集を愚直に作り続けて、世界とつながる造本家が、無邪気にほほえんだ。