日本の物理学はなぜノーベル賞受賞者が多数輩出する「お家芸」となったのか。その起点とも言える原子物理学の父、仁科芳雄(1890~1951)の重厚で多角的な伝記を出した。執筆は10年がかり。「仁科の仕事は多岐にわたる。新資料も見つかり、想定よりも分厚くなった」
仁科は理化学研究所を拠点に宇宙線の観測、原子核物理の理論研究、円形加速器(サイクロトロン)の開発や戦時核研究に加えて、遺伝学などの生物学・医学研究、戦後の日本学術会議設立にも関与した。
貢献は個々の業績にとどまらない。「欧米の研究環境に学び、当時最先端の量子力学を伝えるなど、『触媒』として湯川秀樹や朝永振一郎ら後続を大いに刺激した」
研究上の「革命」は後発国にとって好機だ。1930年代、昭和初期の日本では近代化や戦争の制約を超えて基礎科学の先端的な研究者集団が生まれようとしていた。
先頭に立つ仁科は「欧米から自然科学分野における知識生産のカルチャーを持ち込み、先端的な科学研究のインフラを築く役割を果たした」。年齢差や上下関係にとらわれず議論し、互いに協力し合いながら競争する。そうした集団研究を支える資金源を確保した理研は、いったんは「科学者の自由な楽園」となった。
重工業化で産業の厚みが増し、科学を文化としてとらえる人々も出現していた。「個人の能力や人柄の問題にせず、学説などの『内在史』と制度や社会状況などの『外在史』の区別を乗り越えることで、科学と社会の相互作用が見えてきた」
仁科の系譜を継ぐ今日の巨大科学は、多額の資金と一定の社会的合意を必要とする。「仁科も科学と社会のはざまで苦悩していた。成功者バイアスに注意しつつも仁科をめぐる業績から学ぶことができるのでは」(文・写真 大内悟史)=朝日新聞2023年11月11日掲載