「わたしは小銭レベルの冒険が大好きだ」
爽快な風がびゅんと吹き抜ける文章。知らない町で、二ユーロのコインだけポケットに入れて路面電車に乗る行為が「小銭レベルの冒険」というパワーワードに変換され、旅の手持ち時間を輝かせる。さりげない、しかし魂を宿す自前の言葉の数々から、産地直送の空気が伝わってくる。
旅好き、それもひとり旅を好む俳優が二〇〇五年夏、映画の撮影でフィンランドに滞在することになった。とくに興味も予備知識も持たず、「出張」気分で赴いた土地で遭遇する一リットルのバケツ入りいちご、白夜の夕暮れ、もみ洗いのマッサージ、「地獄」という名のクラブでの熱狂、労働規約を遵守(じゅんしゅ)する映画の撮影現場……首都ヘルシンキと住人たちの素顔が綴(つづ)られてゆく。
俳優とは、いったん自分のなかにすべてを落とし込み、心身の回路を通したうえで感情やしぐさや言葉を表現する職業だとすれば、本書で描かれるフィンランドの大小の断片は、片桐はいりという異能の役者をプリズムとして放たれる光彩。読者は、気づけば舞台の最前列で役者の息遣いに接する心地を味わっている。
フィンランドの映画監督、アキ・カウリスマキの映画にも重なる。ぶきっちょで篤実、どこかユーモラスな登場人物たち。もしかしたら、片桐はいりもそのうちのひとりなのかも。撮影を終え、念願の農家に滞在する日々は、それ自体が短編映画さながら。
いますぐ日常から抜け出したい。誰の心の奥底にも潜む願望が、著者とともに北欧のひと夏を体験しながら叶(かな)えられる。答えや結論をすぐに求めず、わからないものはわからないまま隣に置かれる。急がなくていい、再び日常に戻っても「マトカ」(旅)は消えないと語りかけ、旅と日常の両方を本書は静かに肯定する。
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幻冬舎文庫・660円。2010年2月刊。06年3月の単行本刊行から、累計で29刷12万3千部。映画「かもめ食堂」が話題を集めた後も、じわじわと売れ続ける。「笑えたり切なかったり、お人柄が伝わるところが魅力」と担当者。=朝日新聞2025年11月01日掲載