視線びしびし痛い講演 青来有一
講演で話をするのはいつも緊張します。
日常のおしゃべりなら話がいくら脱線しても互いのやりとりでいくらでも修正できますが、ひとりで話し続ける講演はそうはいきません。
講義でもプレゼンテーションでもなく、講演はどこかライブの話芸の趣が必要なのではないかと思います。あるいは言葉の芸。聴衆の方々にひととき耳を傾けていただいて「うん、うん」とうなずいていただける話ができたらいいと考え、リラックスするつもりで、自分にもそう言い聞かせもします。それでも多くの人々が集まる会場の演壇に呼び出されると頭が真っ白になり、なんとか話し始めても冒頭からしどろもどろになったこともなんどかあります。
照明設備のあるイベントホールでまぶしいスポットライトに照らされたりすると緊張はさらに高まりますが、客席が暗くて離れていて、顔があまり見えないせいか、すぐに落ち着くことができました。夜の海に向かってひとりで話をしていると思えば、それほど緊張もしません。むしろ緊張するのが、すみずみまで明るい普通の教室や会議室で、聴衆の顔もよく見え、まっすぐな視線をびしびしと痛いほど感じる時です。
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学校の先生や政治家など物怖(ものお)じすることなく、どこでも堂々と明快に語りかけて、しっかりとしたメッセージを伝える姿を見るとつくづく感心しないでいられません。
場数を踏み、慣れもあり、それなりの苦労も工夫もしながら身につけてきた技能、やはり、ある種の洗練された芸なのでしょう。そこまではとても無理なので、できるだけ原稿を準備して、時間の感覚をつかむため、読む練習もくりかえして本番に挑みます。
もちろん、原稿の棒読みがだめなのはわかっていますから、原稿は話の流れを見失わないための進路図だと割り切り、語りのライブの感覚は失わないように、話している時に閃(ひらめ)いたこと、思い浮かんできたことも話すようにしています。
ただ思うままに話すのはやはり危うい。思考はまっすぐに流れていくのではないようなのです。手から放った一掴(つか)みのビー玉のように四方八方に飛び散り、収拾がつかなくなり、「あれっ? なぜこんな話をしているのか」としゃべりながら混乱したという失敗はなんどもありました。
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話をしていて助かるのは、会場にひとりはおられる、黙ったまま、ただ「うん、うん」とずっとうなずいていてくれるひとの存在です。「だいじょうぶ、まちがいない」と肯定されている気分になれて安心して話ができます。講演は一方的に話をしているようで結局は「インタラクティブ」、双方向ということなのでしょう。
一度、大人数の講演の前夜、悪夢でびっしょり汗ばんで跳び起きたことがありました。演壇で話を始めると、暗い会場に座る無表情な聴衆がいっせいに首を横に振り、「だめだ、だめだ」とつぶやくのです。あれはほんとうに恐ろしい夢でした。=朝日新聞2026年6月25日掲載