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日本の歩み150年 切り拓いた人たち:上 演説と演芸のメディアミックス

 明治維新(1868年)から150年。時代を切り拓(ひら)き推し進めた人たちの自伝や評伝を手がかりに、京都大名誉教授の山室信一さん、学者芸人のサンキュータツオさん、作家の桜庭一樹さんが語り合った。

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<桜庭一樹さん> さくらば・かずき 71年生まれ。『私の男』で直木賞、『赤朽葉家の伝説』など。「古典百名山」連載中。

 山室 時間的なつながりと空間的な広がりの中で、人々が社会のシステムにどんな影響を受け、あるいは与えたのかを見ていきたいと思います。
 この150年は、福沢諭吉(1835~1901)の『福翁自伝』(1899)の「門閥制度は親の敵(かたき)で御座(ござ)る」という言葉から出発した。身分差別が強かった江戸時代に下級武士の家に生まれた福沢は、学問による独立自尊を唱えた。「どこに帰属しているか」から「何ができるか」に価値が変わっていく。福沢にとって維新前後の激変は、「一身にして二生(にしょう)を経(ふ)る」ごとき体験だった。
 しかし、門閥制度は本当に打破されたのか。戦前は藩閥や軍閥・財閥が動かし、いま自民党の政治家の多くは二世、三世。安倍政治について欧州では「クローニズム」と指摘されています。政権に近い人に恩恵やポストを与えるということです。これは戦前の政商だけでなく、モリカケ問題など、今も続いている。

 桜庭 福沢といえば一般的にはお札のイメージが強いかもしれません(笑い)。ですが、現代の問題に取り組むためにも、今また読むべき一冊ですね。

<山室信一さん> やまむろ・しんいち 51年生まれ。政治学者(法政思想連鎖史)。『憲法9条の思想水脈』など。

福沢と窮屈な箱

 山室 言葉については興味深い逸話もあります。福沢は父の役目から大坂育ちで、元々の地元である大分・中津に戻った時、近所の子どもと言葉が違って仲良く出来ない。福沢によれば、藩や職業によって言葉遣いも違う数千万もの「窮屈な小さい箱」に閉じ込められていた人々が、日本という一つの箱に解放されたのが明治維新だった。一方で、中央集権国家になった結果、地方が弱くなったという問題もある。中国や朝鮮へのある種の蔑視も書かれています。

 タツオ 言葉にもヒエラルキーがあったということですね。
 文語と口語の乖離(かいり)も、国民にとって大きい問題だったと思います。結果的にいわゆる「言文一致」につながったのが、三遊亭圓朝(えんちょう)(1839~1900)の落語。一人で座布団から動かずにしゃべるスタイルを作り上げた人ですが、速記隊を編成して口演を活字にして新聞で連載した。二葉亭四迷は『浮雲』(1887)を書くときに、坪内逍遥から圓朝の速記を参考にするようアドバイスされたといいます。

 桜庭 言文一致というと、四迷のような作家の名が挙がりますが、実は落語家が大きな影響を与えていたんですよね。

 山室 「言文一致」は、「演説」からも始まっています。『福翁自伝』も日常語で時代の変化を見事に写し取っています。福沢は英国の議会を見て、議論によって政権が変わることに驚き、スピーチで社会を動かすために三田演説館を作った。

<サンキュータツオさん> 76年生まれ。漫才コンビ「米粒写経」で活動。日本語学者。本紙書評委員。『国語辞典の遊び方』など。

圓朝と立身出世

 山室 福沢の演説を見た講談師の松林伯圓(しょうりんはくえん)がテーブルに花を置いて講談を行い、その伯圓の講談を東大の初代総長・加藤弘之が見て授業の仕方を工夫する。大衆演芸と政治的議論や学問的講義とが相互に影響を与え、オーラルとライティングのメディアミックスも起きた。

 タツオ 圓朝が様々な試みをしたのは、当時勢いがあった講談への対抗でもありました。

 山室 尊皇思想を広める大教宣布運動に、宗教家や芸人などが動員される。伯圓は、天皇の前で講談を披露するに至った。

 タツオ 落語は、侍文化を伝える講談よりも下に見られ、下世話だからと政府に弾圧される危険もあった。矢野誠一さんによる評伝『三遊亭圓朝の明治』に詳しいのですが、新しい時代に対応するために『塩原多助一代記』(1885)のような立身出世物語を作ったり、井上馨や山岡鉄舟といった政府の権力者とも交流したり。時代の変化の中で、落語を守ろうとしたんだと思います。

 山室 文字が読めない人に耳から教える耳学問が講談や落語で、目から教えるのが歌舞伎や演劇。これらを通じて、契約の観念や「時は金なり」という資本主義の精神が伝えられます。

 タツオ 当時の流行語だった「神経」をもじって取り入れたのが『真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)』。1887年から新聞連載されます。

 桜庭 圓朝の名作怪談ですけど、精神の病の話とも読める。

 タツオ 本当に怖いのは人の心ということ。ここにも、近代的な発想があります。落語の地位向上を思い、落語家の言葉遣いや意識変革にも取り組んだ。それが、口うるさいとけむたがられ、この世代は「天保の老人」と揶揄(やゆ)もされた。圓朝の問題意識は、当時の落語家とはほとんど共有できなかった。
 30歳近く下の世代になる夏目漱石は、圓朝にはあまり触れないけれど、弟子の圓遊は『三四郎』(1908)で三代目小さんと同等に褒めている。圓朝が権威の塊にみえたんでしょう。(「中」は8月18日掲載予定)(構成・滝沢文那、写真・相場郁朗)=朝日新聞2018年8月11日掲載