1. HOME
  2. コラム
  3. 作家の口福
  4. 霜降りより赤身 真山仁

霜降りより赤身 真山仁

 その店は、ニューヨーク・マンハッタンとブルックリンを繋(つな)ぐウィリアムズバーグ・ブリッジの近くにある。

 近年はお洒落(しゃれ)なカフェが増えたが、元々ユダヤ人が多く住むエリアで、今も上下黒のスーツに黒ハットといういでたちのユダヤ人をよく見かける。

 街の一角に百年以上続くステーキの名店「ピーター・ルーガー」がある。

 名物Tボーンステーキを食すると、やみつきになり、店名を聞くだけで味の記憶が甦(よみがえ)ってくると言われている。

 取材でニューヨークを訪れた時、味わう機会があった。夕食の予約は至難で、「午前十一時からなら」と言われ、編集者と三人でランチに出かけた。

 レンガ造りの建物は、歴史を感じる佇(たたず)まいで、店内は、四人がけのオーク材のテーブルがずらりと並ぶ。テーブルクロスはない。ステーキ店といえば高級感という印象があるが、カジュアルで居心地の良い空間だった。

 ウエイターに量を聞き、男三人で、「Tボーンステーキ二人前で」と告げると、店員から「絶対足りないぞ」と言われる。それでも「二人前」約一キロ半を押し通した。焼き加減は「レアが絶品」と勧められて、素直に従った。

 フィレミニョンとサーロインがついた骨付き肉を、自分でナイフで好きなだけ切って、皿に移す。ビールを飲みつつ、会話もそこそこに頬張った。

 一口食べて、人気の秘密が分かった。

 サシの少ない赤身のために、肉本来の滋味が濃厚で、そこに表面だけ焼いた香ばしさが加わる。おいしさの秘密は、秘伝の仕込みもあろうが、それだけではない気がする。

 それは、赤身肉へのこだわりだ。私はステーキでも焼き肉でも、限りなく生に近いレアが好きだ。そういう者には、霜降り肉は辛(つら)く、赤身がありがたい。

 ところが、日本では霜降り肉こそ高級だという常識がある。

 ニューヨークで他の肉の名店も訪れた。いずれも、サシが多かった気がする。KOBE―BEEFで世界に通用する神戸牛などを見ても分かるように、和牛のランクの条件には、見事な霜降りも必須のようだ。

 だが、赤身の美味(おい)しい肉の特徴を生かして焼くステーキこそ王様ではないかと私は思う。常識とは怖(おそ)ろしいもので、異を唱えると、冷たい視線をぶつけられるが、こと味に関して言うと、常識に囚(とら)われる必要などない。自分が美味しいものが、絶品なのだ。

 ピーター・ルーガーでは、幸せなことに、私と店の常識が合致した。

 以来私は、ステーキや焼き肉を食べる時「特上」という表示より、「赤身の多さ」で、注文する。

 それなりの名店だと、「並」でも、肉質は上質なのだから、結果的に安くて美味(うま)い肉を堪能できるわけだ。=朝日新聞2019年9月14日掲載