『前嶋信次著作選』全4巻はたまたま引き継いだ企画だ。すでに準備は大方(おおかた)終わり、しかも私は東洋文庫の担当になったばかりで、何も知らず、内心びくびくしていた。幸い編者の杉田英明氏は編集者よりも全面にわたって緻密(ちみつ)で、教えられることばかりだった。何も知らないということは、よく水を吸うスポンジだ。
明治生まれの前嶋氏の文章はいかにも古風だが、悠然と物語る言葉は、読めば読むほど味が深まる。その文章を読み始めてすぐにファンになった。16年前の1983年に亡くなられ、お会いしたこともないのに、懐かしく感じた。のぼせて、表記の統一や月報といった余計な相談を杉田氏にしたことを恥ずかしく思い出す。表記の統一はみだりにすべきでないし、月報は東洋文庫にそぐわない。
アラビアン・ナイト原典版の訳者として知られる前嶋氏はイスラム史だけの専門家ではなかった(なぜ歴史家がライフワークに文学を選んだのか)。東西文化交渉史の仕事は著作選第2巻に、そして第3巻『〈華麗島(かれいとう)〉台湾からの眺望』には中国・台湾に関わる著作が収められている。最終篇(へん)の「媽祖(まそ)祭」はどこか日影丈吉(じょうきち)の台湾ものを思い起こさせる随筆だ。
昨夏、若い前嶋氏が不遇の頃の8年を過ごした古都・台南を訪れた。80年後の街は地下鉄敷設の最中で、しかしそちこちに残る古廟(こびょう)とガジュマルの古木は前嶋氏が好んだ散策で見たものに違いなかった。=朝日新聞2020年2月12日掲載