名刺代わりの文庫本、映画の半券栞
2015年冬、はじめて出会った夜、終電を逃し、居酒屋に流れ着いた麦と絹。楽しく飲む中、二人はそれぞれのリュックから読みかけの文庫本を差し出します。麦は穂村弘、絹は長嶋有の文庫本。お互いの本を見て、どちらの作家もほとんど読んでいるという二人は、好きな作家の話に花を咲かせます。絹が「全然普通ですよ」と言いながら、いしいしんじ、堀江敏幸、柴崎友香……と好きな作家名を列挙していくのを、頷きながら聞く麦。好きな作家が一緒というだけで、二人の心の距離は一気に縮まっていきます。さらに、お互い映画の半券を栞にするタイプだということも判明し、親近感は増していくばかり。
>過去を走って見えたいま 穂村弘さんが17年ぶりに歌集を出版
>柴崎友香さん短編集「百年と一日」インタビュー なにげない日常にこそ、人生が
二人をつなぐ 今村夏子「ピクニック」
出会ったばかりだというのに、居酒屋からカラオケへとハシゴし、缶ビールを片手に深夜の甲州街道を歩きながら、今村夏子作品について話す二人。デビュー作「こちらあみ子」も好きだけど……と前置きをしつつ、同時収録された書き下ろしの「ピクニック」を絶賛します。
その後も、就活の圧迫面接に涙したり、仕事で理不尽な目にあったりと、お互いが“社会の偉い人たち”に傷つけられるたびに、「その人は、きっと今村夏子さんのピクニック読んでも何も感じない人だ」という言葉をかける二人。「ピクニック」は、互いの感性の指標であり、二人をつなぐ大切な作品なのです。
>今村夏子「こちらあみ子」書評 “ありえない”の塊のような女の子
時を感じさせる 文学ムック「たべるのがおそい」
そして、2016年春、出会った日から今村夏子の新作を心待ちにしていた二人に朗報がもたらされます。創刊されたばかりの文学ムック「たべるのがおそい」に、新作「あひる」が掲載されているのを見つけて大興奮。「たべるのがおそい」はその後も登場し、二人の好きな雑誌の一つになったようですが、惜しまれつつも2019年4月に終刊を迎えます。二人が一緒に過ごした時間の中に、はじまりと終わりもある文芸誌の存在は、時の流れを感じさせるものであると同時に、二人が確かにその時を生きた証とも言えます。
>文学ムック「ことばと」創刊号、すでに7千部 「たべるのがおそい」後継 言葉の先、考え羽ばたく
カルチャー愛のバロメーター 野田サトル「ゴールデンカムイ」
一方、二人の恋のはじまりから終わりまでを見守るかのように映画に登場するのが、野田サトル「ゴールデンカムイ」でした。
出会ったばかりの頃、ドリンクバーをお供にファミレスで話し込む麦と絹。帰ろうとした時に限って、もっと話したくなる話題が出てくるもので、お会計をと思った矢先に、1巻が出たばかりの「ゴールデンカムイ」の話になって延長戦へ。
付き合って一緒に暮らし始めるも、お金がないと何もできないという現実を目の前にフリーターを卒業しようと就活を始める二人。「ゴールデンカムイ」8巻が出ても内定が出ず、時間だけが過ぎていきます。その後、二人ともなんとか就職できたものの、麦は仕事に追われる日々。絹が13巻を読んでいるころ、麦は13巻まで出ていることすら知らずに7巻で止まったままでした。きっと就活中に8巻が出ていたことにも麦は気づいていなかったはず。好きなものを追いかける熱量の差が、二人の心の距離が遠ざかっていることを物語っています。
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二人の日常の一コマを彩った本たち
・煌めく日々の象徴 市川春子「宝石の国」
同棲を始めて数ヶ月という蜜月の日々を象徴するのが、市川春子「宝石の国」。ベッドの上でお菓子を食べながら、顔を寄せ合い、一冊の漫画を読んで涙を流す二人。同じものを読んで、同じように心が動く。二人にとってその時は当たり前でも、振り返れば、奇跡のような日常があったことを思い出させてくれる作品になったはずです。
・心のすれ違いを垣間見せる 滝口悠生「茄子の輝き」
二人の小さな心のすれ違いが積み重なっていく中で登場するのが、滝口悠生「茄子の輝き」です。絹が読み終えて深いため息をついてしまうほど「よかった」と思えた一冊。きっと麦も気にいるはずだと単行本を渡しますが、仕事で忙しい麦は読む余裕がないようで、無造作に積読の山に積んでしまいます。絹のすすめで出張先に持っていくものの、読み始める気配はなく……。他の本と同様に、積読の彼方へと消えていってしまったのかもしれません。
麦と絹のお気に入りの作家たち(公式パンフレットより)
・穂村弘
>過去を走って見えたいま 穂村弘さんが17年ぶりに歌集を出版
・いしいしんじ
>いしいしんじ「マリアさま」書評 見えないものたちの声を聞く
・堀江敏幸
>堀江敏幸「燃焼のための習作」書評 寄り添う言葉に耳を傾けて
・柴崎友香
>柴崎友香さんエッセー「季節の地図」
>柴崎友香さん短編集「百年と一日」インタビュー なにげない日常にこそ、人生が
・小山田浩子
>小山田浩子「穴」書評 獣を追いかけて落ちた先には
・今村夏子
>今村夏子「こちらあみ子」書評 “ありえない”の塊のような女の子
>今村夏子「むらさきのスカートの女」書評 孤独を映し出す乾いた可笑しさ
・円城塔
>【第39回日本SF大賞受賞決定】文字が自ら動き出す 円城塔さん連作短編集「文字渦」
・小川洋子
>小川洋子さん「密やかな結晶」インタビュー 26年前の作品、英訳で再評価
・多和田葉子
>多和田葉子さん「星に仄めかされて」 インタビュー 多言語のはざまで旅は続く
>朝日賞受賞・多和田葉子さん自作を語る 多言語で翻訳、いろんな解釈が最高の楽しみ
・舞城王太郎
>舞城王太郎「獣の樹」書評 目が離せない、成雄サーガ
・佐藤亜紀
>佐藤亜紀「スウィングしなけりゃ意味がない」書評 反ナチスの悪ガキがあける風穴
・西村ツチカ
>「西村ツチカ画集」 背景としてしか存在しないものなどあり得ない
・ほしよりこ
・小川哲
・近藤聡乃