1. HOME
  2. コラム
  3. 杉江松恋「日出る処のニューヒット」
  4. 君嶋彼方「春のほとりで」 10代の日々を活写、青春小説作家の代表作が生まれた(第17回)

君嶋彼方「春のほとりで」 10代の日々を活写、青春小説作家の代表作が生まれた(第17回)

©GettyImages

読者の心の動きと同期する

 どこにも行き場所のないわたしたち。
 10メートル四方にも満たない広さの世界で日々を送り、その中で人とつながり、怒り、哀しみ、喜び、ありとあらゆる感情を味わう。自分の思いをそのまま表現することは容易ではなく、周りにいる誰かの顔を見てからでなければ口にできない。教室の壁と、心を囲う見えない柵の二つの中で過ぎていく時の流れを追いかけていくしかないわたしたち。

 君嶋彼方の最新作『春のほとりで』(講談社)は、誰もが通過することになる10代の時間を描いた連作小説集だ。全6篇のうち、最後の「青とは限らない」を除く作品が小説誌「小説現代」に発表された。最初の「走れ茜色」を読んだときの、胸を突き上げてくる感情の動きを私は今でも覚えている。どういう言葉を当てれば物語に動かされた心の状態を正しく表現できるのだろうか。そうした思いに駆られた小説だった。君嶋の短篇ではいちばん好きな1篇である。編纂委員を務めている日本文藝家協会の年間アンソロジー『雨の中で踊れ 現代の短篇小説ベストセレクション2023』(文春文庫)にも収録した。

 秋津が走っている。

 この短い1文から小説は始まる。秋津悠馬は野球部の高校生である。校庭を彼が走るのは放課後の、いつもの光景だ。小説の主人公は彼ではなく、同じクラスの佐倉晃人である。佐倉は元野球部で、今は帰宅部なのだが秋津と一緒に帰るために、教室で部活が終わるのを待つようになった。校庭で走る秋津を見つめながら、佐倉は待つ。

 この教室に人が入ってくる。同級生の新藤梓だ。新藤はクラスの中でもいわゆる上位のグループに属している。全員が可愛く、まばゆく光輝いている彼女たちと、地味な存在である佐倉の間には接点などない。だがその日の新藤は佐倉に興味を持ったようで、なぜか急に距離を詰めてくる。そして、思いがけないひと言を発するのである。その日からふたりの間には、放課後同盟でも言うべき関係ができて、夕暮れの教室で一緒に過ごすようになる。

 新藤には、家にあまり早く帰りたくない理由があって、教室でだらだら過ごしていたいのだということがそのうちに明かされる。「私、恋バナしたかったんだよねー」という新藤に付き合って、佐倉は益体もない話をしながら下校までの時間を一緒に送る。

 一口で言ってしまえば恋愛小説なのだが、結ばれること自体が主題ではない点がこの作品の価値だ。誰かが誰かに好意を寄せる。だが、その誰かが返してくれる思いは同じだけ強いとは限らない。そういう不等式の中で誰もが生きている。まだ人生経験の浅い10代にとって、教室の中で体験するそれは堪えがたいほどに辛いことかもしれない。でも、そういう釣り合わない関係を重ねながらみんなが生きていくのである。

「走れ茜色」で最も素晴らしいのはラストシーンだ。いつもは秋津が体を茜色に染めながら走っているのを見ているだけだった校庭を、佐倉と新藤は走る。佐倉は思う。「ほんの一瞬でいいから」自分の思う人の目にも「俺たちが、茜色に光って見えてくれていたらいいな」と。この疾走は読者の心の動きと同期する。口に出せばうたかたのように消えてしまう思いを何かの形で表現するために、佐倉と新藤は走り出す。読者の胸で暴れまわる思いと彼らの鼓動は一瞬重なり合い、小説は終わる。

オフビートなユーモアが生きる

 次の「樫と黄金桃」もいい。〈私〉こと南波和香は、クラスの中でも最上位と見なされる女子のグループにいる。だが、和香には彼女たちには言えない過去があり、その秘密を唯一知る昔の同級生、雀子の顔色を窺いながら過ごさなければならないのである。

 何かといえばすぐ皮肉を言い、自分を支配したがる雀子への苛立ちを和香は募らせていく、と書くと、ありふれたイヤミスの設定のようだが、君嶋はそんなありきたりな人間関係を書かない。今は嫌で嫌で仕方ない雀子との間にも、小学生のときには忘れられない思い出があったのだ。それが「樫と黄金桃」という題名の由来で、行き場のない密室を舞台に描かれる息詰まる物語に、夕方の風のような清涼感をもたらしている。この、人間を単純に決めつけず、立体的に描こうとする姿勢が君嶋の美点だ。

「灰は灰に」は長見(おさみ)月斗という名前と老け顔の風貌から自然に「おっさん」というあだながついた語り手が級友からパシリ扱いされ、さらには不良として名高い「小村くん」から煙草を買ってくるように言われるという話だ。顔が老けているから怪しまれないだろうという理由である。ひどい。いわゆるいじめといじりを主題にした話だ。長見が、自分は物語の主人公で、これはいじめでもなんでもなく単に与えられたクエストをこなしているだけなのだと思い込もうとするという痛ましいくだりがある。この辛い物語にも涼やかな風が吹く場面がある。オフビートなユーモアは君嶋の武器で、読者の思いもよらなかったような方向から緊張の緩和が与えられる。辛い現実を粉飾したりはしない。ただ、日々の中にも生きるに値するような出来事、一瞬の癒しは見いだせるということを書くのである。

最後の1篇で連作が完成、誰も見落とさない優しさ

 後半には、世間から認められないことに苛立つ主人公の話が二つ並ぶ。「レッドシンドローム」は戦隊のレッド、つまり人間関係の中心でいたいのになぜか周囲がそうさせてくれないことに憤る〈俺〉こと椎名赤彦の物語で、彼は自分よりも目立っている友人を陥れるためにSNSの裏アカウントを突き止めようとする。「真白のまぼろし」は漫画家になりたくて投稿を重ねているが結果を出せずにいる舞沢雛が、自分よりも圧倒的に画力のある遠沢華乃子の絵を見て打ちのめされるという、創作に打ち込む人の内面を描いた短篇である。かなり痛々しい自我が嫌味のない筆致で描かれる。素晴らしいのはその構成で、意外ではあるがひねりすぎてもおらず、かといって予定調和からは程遠い結末が準備されていることに驚かされる。なるほどこれしかないが、なかなか書けない結末だ。

 最後の「青とは限らない」は、恋愛至上主義に背を向けて〈青春くそったれ同盟〉なるものを結成している二人の話で、唯一の書き下ろしである。それまでの5篇で書かれていたこと、世界の窮屈さ、自分たちの未成熟さ、思うように人との関係が築けないもどかしさ、などが集約され、一つの形を作り上げていく。これを読むことで連作としての形が完成するのが構造としておもしろく、それまでの話を読んだことで心に刺さった小さなとげのようなものも綺麗に片付けてくれる。誰も見落とさない優しさ、とでも言うか、全体を書き尽くそうとする貪欲さなのか。この1篇があるのとないのとでは、読後感は違ってくるはずだ。
『春のほとりで』という題名は、青春の真っただ中というわけではなくそのほとり、自分には手の届かないものとしてきらきらとした世界を見ていた者たちの視点を表しているということなのだろう。私も含め、読者の多くはそういう場所で10代を過ごしてきたはずだ。きらきらとした輝きはなくとも、それは確かに生きてきたという実感のある時間だった。

「次期の直木賞を探す」という主旨の本連載が始まってから君嶋の作品は複数刊行されたが、あえて見送ってきた。取り上げるならこの、『春のほとりで』にしたかったのだ。君嶋彼方という素晴らしい青春小説作家の代表作となる1冊である。君嶋体験がまだの方には手に取ってみることを熱烈にお薦めする。あのときの自分を本の中に見つけるはずだ。

▽君嶋彼方さんのエッセー「大好きだった」はこちら
地味だけど心に残る、君嶋彼方さん一押しのドラマ「すいか」
君嶋彼方さんに影響を与えた「筋肉少女帯」の濃い歌詞
分かりやすさと面白さ、君嶋彼方さんが小説のお手本と考える漫画「ブラック・ジャック」 
猫派の君嶋彼方さんが感じる愛と使命感