前回、本屋イトマイにお邪魔した際、水道橋の機械書房の店主・岸波龍さんが本屋を開くまでをつづった「本屋になるまえに」というリトルプレスを購入した。岸波さんの名前は百年の二度寝の河合南さんやハリ書房のハリーさんらから耳にしていたが、足を運ぶ機会がないままだった。いよいよ満を持して? 書店主で作家の岸波さんを訪ねようと思い、その前に読んでおこうと思ったのだ。しかし「読めば全部わかるから」と言われたらどうしよう……?
灼熱の太陽をものともせず、東京ドームシティで遊ぶ子どもたちを横目に、JR水道橋駅から歩くこと約5分。金毘羅坂という名前らしい急坂の一角にあるとのことだが、どこだろう?
右手に見える6階建てビルの、入居者一覧をしげしげと眺めてみる。法律関係の事務所名が並ぶ中、3階に「機械書房」の文字があった。
ドアをガチャリと押してビルの中に入ってみると、蛍光灯に照らされた共同廊下は、「ザ・昭和」といった空気に溢れていた。往年の名ドラマ「探偵物語」で松田優作が扮した探偵・工藤周作がひょっこり現れそうだ。そういえば工藤探偵事務所のロケ地は、すぐ近くの淡路町にあった病院ビルだったっけ……。
エレベーターなどないから、階段を昇りフロア奥の部屋番号「36」を目指す。ドアのモールガラスが、これまた昭和の風情だ。ノックして中に入ると、ゴジラTシャツを着た岸波龍さんが迎えてくれた。4坪の店内はまさに正方形で、あちこちにソフビがずらりと並んでいる。
「正方形の空間を棚で囲んで、ぐるりと一周できるイメージにしたくて。だから正方形で家賃も抑えめだったここを借りようと、15分で決めました」
返品バイトで知った「1冊とずっと付き合う」こと
三重県で生まれ埼玉県所沢市で育った岸波さんは、現在39歳。中学生になる頃まで三重の実家で祖父母が本屋を営んでいたので、本屋は田舎での遊び場のひとつだった。大学では文学部国文学科で詩を専攻したが、当時は自分で書くより、詩の研究がメインだった。
「三好達治や萩原朔太郎の詩を研究していましたが、ある時、町田康の作品に出会って。以来、谷川俊太郎や荒川洋治などの現代詩もテーマになりました。小説や映画の研究も課外ゼミでしていましたが、あくまで基本は詩でした」
卒業後はそのまま文学の道を邁進、せずに岸波さんは草津温泉のホテルのベルボーイとなった。す、すごい振れ幅!
「ずっと作家になりたいと思っていて、30で仕事を辞めようと考えていたんです。だからリゾートやテーマパークの試験を受けてみて、面白くても面白くなくてもまずはそこで2年間働こうと思っていました」
埼玉県でも東京に近い場所で育った岸波さんにとって、雪深い草津温泉は「二度と住みたくない」と思うほど不便で過酷な環境だった。それでも予定通り「ほぼ2年」働き、その後はバイクで日本半周をしながら、あちこちで釣りをしては文芸誌を読むという悠々自適な日々を半年間過ごした。
「釣りが好きなんです。時に野宿しながら釣りをして、って生活をしていたのですが資金が尽きたので、学生時代にアルバイトしていた日販の返品工場で、もう一度働くことにしました」
書店から戻ってきた本を仕分けし返品作業を約2年続けるうちに、「返品作業って意味のあることなのだろうか?」と疑問を持つようになったそうだ。
「『これは売れないから』という理由で返品してしまうのは、本を数字としてしか見ていないのではないかと思ったんです。自分が本屋をやるなら、置きたいと思うものとずっと長く付き合い続けたい。だから今は100%買い切りにしています。支払いは一度にまとめてですが、手間が省けてかえって気楽です」
30で独立して本屋、の前に熊手職人12年
30歳が見えてきた頃、岸波さんは求人誌で見つけた仕事に転職した。それはなんと熊手職人だった。徒弟制度じゃなかったんだ! と驚いていると、その会社は家族経営から正社員を雇う方向にシフトする時期だったと教えてくれた。
爪を作った竹にタッカーで土台になる発泡スチロールを取り付け、その上に櫛で飾りを並べていく。縁起よく美しくバランスよく飾りつけていく作業は、デザイン性だけではなく速さも要求される。岸波さんはどんどん腕をあげ、課長を任されるまでになった。しかしこのまま親方に、という道は選ばなかった。
「これはいろんなところで話しているのですが、33歳のときに結婚してバリ島に新婚旅行に行ったんです。ビーチでハンモックに揺られながら東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』を読んでいたら、村上春樹の『回転木馬のデッドヒート』に収録されている『プールサイド』に登場する35歳の男性が『35は人生の折り返し地点だから』と涙を流すエピソードが作中に引用されていて。ふとその時『このまま楽しい人生を続けるのが正解なのか』と思ってしまって」
35歳を迎えた2020年、岸波さんは詩にまつわるエッセイをつづった自主制作本『ASK FOR SADNESS』を作った。文学フリマに向けて作っていたが、当時はコロナ禍まっただ中。作り始めたものの中止になるかもしれないと思っていた時に、一軒の本屋と出会った。この連載で2021年2月に紹介した、早稲田のNENOiだった。
「ランニングしていた時に、NENOiの前をたまたま通りかかったんです。ランニングの途中で本屋に寄って本を買ってリュックに詰めて走るというのをよくやっていたので、入ってみようかなと。すると根井啓さんから声をかけられたんです。お客さんが書店主に声をかけるのはあることだけど、その逆は珍しかったから『アパレルの店みたいだな』と思いました。棚を見てみるとリトルプレスや雑貨も豊富でカフェスペースもあって。セレクトショップみたいだなと思ったのが、NENOiの第一印象でした」
自分の本を最初に置いてくれたNENOiには、その後も通い続けて常連となった。NENOiを出発点に、作家で編集者の友田とんさんや双子のライオン堂の竹田信弥さん 、小鳥書房の落合加衣子さんら、本と本屋のつながりも広がっていった。
仲間たちの店で絵や立体作品を発表する傍ら、ずっと温めていた「文学の遊び場」としての場所作りに取り組み始めた。12年勤めた会社を辞めた2023年5月末、その「文学の遊び場」として機械書房はオープンした(このへんの過程をより詳しく知りたい人は、『本屋になるまえに』をぜひ。在庫僅少だけど機械書房にアリ)。ちょうど1カ月前に閉店したNENOiから、バトンを受け取ったかのようなタイミングだった。
「壁の棚は違いますが、平台とZINEを置いているラックは、NENOiにあったものを譲り受けているんです」
ああっ確かにそうだ。NENOiの回で「手前の平台には主に新刊が並ぶが、書棚には古本と新刊が入り混じって置かれている」と紹介した写真に写っているものと同じだ!
つながる本屋のバトン、新しく生まれる試み
岸波さんはNENOiを「自分の一番のホーム」と言い、根井さんとプライベートな話もいろいろとしてきた。根井さんがオランダに引っ越した今でも連絡を取り合っているという。NENOiが閉店したと聞いたとき、私はただ寂しい気持ちになったけれど、在りし日の店の要素が誰かに受け継がれて続いているのを目にするとは。つくづく、この連載を続けていて良かったと思った瞬間だった。
機械書房の在庫は約2000冊、新刊6、古本が4の割合はこれまたNENOiと同じだが、リトルプレスや詩などがメインになっているのは、大きく違ったポイントだ。とくに現代詩は私家版が充実していて、佐藤帆菜さんの詩画集「ゆっくりと、明るく、時々フルーツが動きます」など、はじめてお目にかかるものも多い。岸波さん自身がファンだという佐々木敦さんの「佐々木敦による保坂和志(仮)」はどうしても置きたいと思っていたら、なんと佐々木さんご本人が届けに来てくれたそうだ。
「サンプルを読んだり、他の書店で買って良かった本についてSNSでつぶやいたりすると、作者のほうから連絡が来ることも多く、それが品揃えに一役買っています。佐々木さんが来て下さった時は『本屋を始めた目的のひとつを達成した!』という気持ちになったし、佐藤さんの詩画集は、機械書房でこそ置く本だと感じて。ただあまりハードルをあげた感じにはしたくないので、古書はセレクトせず自分の蔵書と買い取りを並べています」
ガラス張りで通りから中が見渡せ、道端に看板もあったNENOiとは違い、ビルの3階で外から見えず、看板も出ていない。それでもこの日も、話を聞いている最中にお客さんがやってきて、棚をじっくりと眺めてから購入していた。
「『この詩が良かったです』と言いに来てくれるお客さんもいて、実は僕が読者のダイレクトな感想を一番聞いているのではないか、と思っています」
「本屋と店主って、劇団と劇作家の関係に似てると思うんですよね。店主が伝えたいことを、店を介して本で伝えていく。そんな思いがあるから、機械書房にある本については何を聞かれても答えられます」
本は作って終わりではなく、長く後世に読み継がれていく。なのに「人気がない」という理由で、その機会を奪われてしまうものも多い。だが、「人気がない=つまらない、価値がない」では決してないからこそ、選んだものには最後まで責任を持つ。そんな覚悟が岸波さんから感じられて、言葉には出さなかったが、彼に選ばれる言葉たちは幸せ者だとじんわり思っていた。
岸波さんが選ぶ、ぜひ機会を作って読みたくなる3冊
●『さあ、本屋をはじめよう 町の書店の新しい可能性』和氣正幸(Pヴァイン)
18人の独立書店の店主の文章が載っており、僕も寄稿している。この本を読んで本屋をはじめる人がいつか出てきたりするんだろうか。少なくとも本屋をやるのは面白そうだなあと思う人が増えそうな元気の出る本。
●『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』パク・ジュン、趙倫子(クオン)
短い詩も時折挟まれるけれど、全体的には散文詩集といっていいだろう。「朝ごはん」という詩に顕著なように、食事ひとつとっても愛する者の存在が詩人の中につねにある。食べ物は自分の口に入るだけではないのだ。
●『踊る幽霊』オルタナ旧市街(柏書房)
文学フリマや書店で人気を得たリトルプレスの書き手の商業デビュー作のエッセイ集。東京を中心に様々な街が舞台になっている。会社員として働きながら文章を書いて生活したい人にぜひ読んでほしい。傑作と思う。