人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません――。
2024年にノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は70年前の8月10日、そう宣言して立ち上がった。その歩みを写真などで振り返り解説するパネル展が東京・杉並の大学生協杉並会館1階ロビーで開かれている。被爆者たちが団結し、声を上げることができた背景には、市民による全国的な原水爆禁止運動の盛り上がりがあった。
1954年、米国が太平洋のビキニ環礁で水爆実験を強行し、反核運動のうねりが起きた。55年、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が誕生。56年、原水爆禁止世界大会の開催中に日本被団協が産声を上げた。
だが、60年代に入ると、日本被団協は分裂の危機を迎える。国内の原水爆禁止運動は、冷戦下の旧ソ連が実施した核実験などを巡って揺れた。60年安保闘争を経た「政治の季節」。分裂の芽は各所にあった。日本原水協では「いかなる国の核実験にも反対」と旧社会党・総評系が主張する一方で、共産党系は旧ソ連の核実験について「やむを得ない防衛的なもの」と主張して対立。65年2月、旧社会党・総評系が飛び出して原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成。運動は大きく分裂した。
日本原水協に加盟していた日本被団協内でも意見が割れ、活動休止状態に陥った。当時を知るメンバーが、2026年6月の「被団協新聞」に1966年の総会の様子を寄稿している。分裂は必至と思われたが、場内から〈あの「地獄」と悪魔の兵器を被爆者は許すことができるか、私たちは「広島・長崎の同級生」ではないのか〉との声が上がり、団結できたという(佐藤力美さん「日本被団協結成70年に寄せて」)。
「被爆者たちの間には、キノコ雲の下で同じ体験をしたという思いが強かった。だからこそ分裂するよりも、つながっていくことを選んだ。その気持ちはよくわかる気がします」と日本被団協の浜住治郎事務局長(80)は話す。自身も胎内被爆者だ。組織をつなぎとめたのは、結成当初から一貫していた「ノーモア・ヒバクシャ」という切実な願いだった。
パネル展はNPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会と日本被団協、全国大学生活協同組合連合会が企画。日曜日をのぞく午前10時~午後4時。10月3日(土)まで。無料。9月19日(土)には結成70年のシンポジウムがある。事前申し込みが必要で、オンライン視聴も可能。問い合わせはノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会(03・6821・5625)。(興野優平)=朝日新聞2026年9月9日掲載