1. HOME
  2. 書評
  3. 「村のこしの湯布院」 地域に根ざす哲学から生まれる 朝日新聞書評から

「村のこしの湯布院」 地域に根ざす哲学から生まれる 朝日新聞書評から

評者: 御厨貴 / 朝⽇新聞掲載:2026年09月12日
村のこしの由布院: 中谷健太郎一代記 著者:森 まゆみ 出版社:平凡社 ジャンル:ノンフィクション

ISBN: 9784582840070
発売⽇: 2026/07/22
サイズ: 13.5×19.5cm/272p

「村のこしの湯布院」 [著]森まゆみ

 森まゆみ、ついにモノにしたな、中谷(なかや)健太郎と由布院の聞き書きを。このすべてに、かする程度のつきあいの私には、どのページからも森と中谷の見事な掛け合いの様子が手に取るように浮かぶ。
 一代記とは言うものの、中谷の多面的人生を反映してのことか。森も時空を行ったり来たり、座談の妙を見せる。時には出来事を、時にはメディアを、時には中谷の関係者を自由自在に10年余、点描してきた成果は楽しくもあり、哀(かな)しくもありだ。
 あの雪の研究で有名な中谷宇吉郎を一族にもち、人々と同じ戦後を受け入れながら、中谷は着実に歩いている。そして映画にのめり込み、助監督を務める。この映画時代の中谷を通して、森は1950年代の日本映画の作り手や俳優にえらく細かく光をあて、人物像に触れている。辛うじて映画界にどっぷりつかる前、60年安保への敗北感とともに中谷は東京を去った。果たして彼は、この東京体験をその後の由布院でどう消化したのか。それは東京生まれ、東京育ちで、20年遅れて〈谷・根・千〉という地域にのめり込む森と同じだったか否か。
 中谷の盟友、溝口薫平、志手康二らが次々と登場し、森はまた彼等(ら)の関係者を含めて座談をくり返す。中谷は言う。
 「先進地に視察に行くより、由布院とはどういう土地なのか、深く掘り下げ、この土地の暮らしに根ざしたものを拾い上げてみたかった」
 だから「村おこし」ではなく「村のこし」なのだ。その後の中谷のアイデアの開花、役所や大資本の権力行使への抵抗、いずれもが地域に根ざす哲学から生まれゆく様を描く森のニコニコ顔が目に浮かぶ。
 しかし圧巻は音楽祭、映画祭、文化・記録映画祭という、中谷の東京の前半生とどこか共鳴するものが生まれたことだ。まとめ役がさぞ一番しんどかったであろう。おっと、年表にまで小さく「文化・記録映画祭実行委員長、清水聡二死去」とあり、ハッと胸をつく。中谷の志を継ぐ一人だった清水。彼は私の地域文化への導きの星だった。
 人は思い出に生きるという。だが中谷も森も、活動のうち最初の10年はよく覚えているが、という心境だ。そこで歩みをとめるのか、なお現役たるのか。難しいところだ。
 しかし最近のインバウンド増加で、平成合併後の湯布院はまたも新しい課題にぶつかっているようだ。それを若い世代が乗り越えていけるかどうか。中谷や森の心配はそこにあるだろう。でも中谷はそこでもまた最後の粋なひねりを見せるのかもしれぬ。乞(こう)御期待!
    ◇
もり・まゆみ 1954年生まれ。作家。地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊。終刊まで編集人を務め、発行元の谷根千工房がサントリー地域文化賞を受賞。著書に『鷗外の坂』『「青鞜」の冒険』など。