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「夏帆 The Tale of KAHO」 物語的な真実を宿す断片の感触 朝日新聞書評から 

評者: 青山七恵 / 朝⽇新聞掲載:2026年08月22日
夏帆 The Tale of KAHO 著者:村上春樹 出版社:新潮社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784103534402
発売⽇: 2026/07/03
サイズ: 14×19.8cm/352p

「夏帆 The Tale of KAHO」 [著]村上春樹

 これは、何について書かれた小説なんだろう?
 一つ小説を読み終えるごとに、考える(「テーマ」は何か、という問い立てとはちょっと違う)。大抵は二、三の言葉が浮かぶものだけれど、本作のように、全体からはっきり切り崩せないイメージの断片が一挙に押し寄せてくることもある。例えば、縁側に腰かけるありくいの奥さん、腎臓の形をしたナイフの柄、象の卵を抱えて森を駆ける女の子、などだ。従来の村上作品にも魅惑的な細部は満ち溢(あふ)れているが、本作はとりわけ、こういった断片の感触そのものに物語的真実が宿っているように思われる。
 ブラインドデートで世にも不愉快な男と出会って以来、主人公の絵本作家、夏帆の周りには次々不思議な存在が現れる。武蔵境(秘密の通路でジャングルと繫〈つな〉がっている!)に引っ越すよう迫るありくいの奥さん、商店街の「とぎや」の主人に取り憑(つ)いた邪悪なジャガー、実家の母親を乗っ取ろうとするシロアリの女王、といった「メタファーであると同時に、紛れもない実体」たちだ。夏帆は絶えず彼らに行動を促され、終盤には母との関係において厳しい試練を課されることになる。
 脈絡もなく善悪も定かでなく、受け身にならざるをえない奇妙な世界。それに対する夏帆のほぼ唯一の自発的リアクションが、物語を綴(つづ)ることだ。顔を失った少女や森に置き去りにされた少女を主人公とするそれらの物語に、「善き物語には、必ず何かしらの有用性が含まれている」という作中に引用されるベンヤミンの言葉が響く。夏帆の綴る/夏帆についての物語は、メッセージの容(い)れ物や思索の手段としてではなくて、不可解なこの世に、不可解ながら一顆(いっか)の生命としてそこにあってしまうこと、その感触を確かめ納得するためだけに存在しているようにも見える。最後に夏帆の目からこぼれる涙には、成熟した作家の、物語に対するいまだ新鮮な恋慕と信頼が感じられた。
    ◇
むらかみ・はるき 1949年生まれ。作家。79年『風の歌を聴け』でデビュー。著書に『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』『1Q84』など。チャンドラー、サリンジャーなどの翻訳も手がける。