皇室典範と国民 なぜ「男系男子」にこだわるのか 原武史
7月24日、改正皇室典範が公布された。最大の眼目は、1947(昭和22)年に皇籍を離脱した旧11宮家の男系男子を皇族の養子として迎えることを可能にするとともに、その子どもが男性であれば皇位継承資格をもつとしたことにあった。男系男子による皇位継承にこだわる保守派の意向が露骨に反映されたのだ。
天皇の歴史を振り返れば、江戸時代までは養子となった後に即位した天皇もいた。現天皇の直系の祖に当たる光格天皇は、江戸時代に創られた閑院宮家の出身で、後桃園天皇が男子を残さず死去したため、養子として迎えられた。
明治期に皇室典範が制定される際には女性天皇や女系天皇を認めるべきだとする意見があった。辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』(講談社現代新書・1078円)が記すように、それを否定して男系男子による皇位継承を主張したのが井上毅だった。伊藤博文『憲法義解』(岩波文庫・1001円)には、皇室典範を起草した井上自身による解説書である「皇室典範義解」が収められている。井上は第1条で皇位継承を男系男子に限定したのは、過去に存在した女性天皇は「祖宗の常憲」でなく、「後世の模範」にならないからだとしている。
他方で第42条では養子を禁じている。井上はその理由を「宗系紊乱(びんらん)」、すなわち血統の秩序が乱れる恐れがあることに求めている。
昭和天皇と香淳皇后の間には女子が4人生まれ、男子がなかなか生まれなかった。宮内庁編修『昭和天皇実録』第五(東京書籍・2079円)には、天皇が31(昭和6)年3月、皇室典範改正による「養子制度導入の可否」につき、元老の西園寺公望の意見を聴こうとしたという記述がある。このときは西園寺が難色を示し、33年12月に皇太子(現上皇)が生まれたことで、男性皇族を養子として迎える案は葬られた。
戦後の皇室典範の改正に際しては、女性天皇を認めるべきか否かが問題となった。笠原英彦、小川原正道編著『天皇と皇室の近現代史 思想・制度・外交』(慶応義塾大学出版会・2970円)に収められた論文で、笠原はそれが検討されながら結局否定され、男系男子による皇位継承が踏襲される過程を考察している。養子を禁ずる規定もまた踏襲された。
だが65年に文仁親王(秋篠宮)が生まれて以降、皇室に男子が生まれない状況が続いた。2005(平成17)年に出された有識者会議の報告書では、皇室典範を改正して女性天皇や女系天皇を認めるべきだとする一方、旧宮家の男系男子を養子として迎える案は国民の理解や支持が得られないとして否定された。
そこには「養子案」に乗り気でない天皇(現上皇)の意向が反映されていた。井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(岩波書店・上中各3520円、下3960円)によれば、当時の天皇は秋篠宮家に第3子が生まれることを期待していた。翌06年9月に悠仁親王が生まれ、期待は現実のものとなった。女性天皇や女系天皇に関する議論は封印されたのだ。
平成から令和になると、天皇の代替わりを待っていたかのように再び有識者会議が立ち上がり、21(令和3)年に報告書が出された。そこでは05年に否定されたはずの「養子案」が、皇族数確保のための案の一つとして再浮上した。前掲『天皇と皇室の近現代史』所収の論文で、森暢平がこの過程を考察している。
現上皇は光格天皇以来、初めて退位した。皇室に傍系の血筋を引く男子が養子として迎えられれば、これまた光格天皇以来、初めてのことになる。だが前者は国民の圧倒的支持を得たのに対し、後者はそうなっていない。この違いはあまりにも大きい。=朝日新聞2026年8月22日掲載